株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
フィールドワーク部 小林祐児(コバヤシ ユウジ)
数年前、EPOSカードの広告コピーに次のような英文が躍った。
――You are what you buy.
「何を買うかで、あなたが決まる。」
英語圏のことわざ
" You are what you eat. "(あなたはあなたが食べる物でできている)をもじったこのコピーは、今の時代の「消費」のあり様を明け透けなまでにくっきりと映し出している。
今、雑誌やテレビCM、街角のポスターに至るまで、企業が展開するマーケティング・コピーには「わたしらしさ」「自分らしさ」の惹句があふれている。CDショップでどの音楽を選ぶか。スーパーでどの飲み物を買うか。旅行先でどのホテルを選ぶか。ずらっと並べられた「あなたらしさ」の数限りない選択肢から一つを選びとることは、単なる購買行動の範疇をはみ出し、ライフスタイル・人生哲学の表現となっている。
友人の部屋に遊びに行き、本棚や食器棚やクローゼットやCDラックを眺め見れば、その友人が「いかなる人か」の骨格をおおよそつかんだ気になれる。買い物は平凡で日常的な行為でありながらも、今の〈わたし〉の趣向を反映しつつ、未来の〈わたし〉なるもののシルエットを構築していく、特別な儀式のようにも思えてくる。
前回のエントリでは、社会学における〈役割〉の考え方を紹介し、その延長として社会学がここで問題になる「自己」というものについて、普通とは少し異なる見方をすることを述べた。
購買というシーンにおいて、なぜこうまで〈わたし〉が要請されるようになったのか。本エントリーでは、この特異さにより明確な輪郭を与えるために、社会学・人文科学的なフィールドが「消費」という文化をどのように扱ってきたのか、その系譜を紹介したい。
「消費社会」とはいつ・どんな社会か
まず最初に、いわゆる「消費社会」の呼び名が、いつの、どのような社会に向けられてきたのかを確認しよう。
消費社会の本格的な到来については、19世紀後半ごろを萌芽としつつ
、第一次世界大戦後のアメリカをその時点と見なす研究者は多い。このころのアメリカは、第一次世界大戦後の空前の好景気に沸き、歴史あるヨーロッパの文明を超え、世界最大の債権国へとのし上がっていった。
それまで上流階級の贅沢品であったラジオ・自動車、洗濯機や冷蔵庫などの家電製品が全米中の中産階級に広くいきわたり、タブロイド新聞や口紅・香水など、大衆消費文化が摩天楼を背景にして花開く。のちに
「狂騒の20年代」と呼ばれる繁栄をアメリカ全土が享受することになった時代である。
T型フォードをその象徴として、各産業におけるマス・プロダクションのシステムが軌道に乗り、大量生産・大量消費の肥沃な消費スタイルが広く行き渡った。フレデリック・テイラーが科学的管理法を提唱したのち、レスリスバーガーとメイヨーによる有名な「ホーソン工場実験」が実施され、現在までの経営・マーケティング理論の基礎的知見が生まれたのもこの時代の出来事である。
日本では、こうした豊饒な熱波はアメリカよりも少し遅れ、大戦の復興期を越えて経済白書が
「もはや戦後ではない」と言い放った56年以降にやってくる。
白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機が家庭の
「三種の神器」として紹介され、焼け野原の荒野から一転して未曾有の経済発展を見せ始めるころに、消費社会と呼ばれうるような文化が形成されていく。60年から70年代の日本には、のちに社会学者見田宗介が「理想の時代」と名付けたような広範な幸福感が蔓延し、産業構造から市民生活に至るまでの急速な変化を経験していた(見田2006)
@)。
こうした急激な経済発展の最中、人々に共有されていたのは、自分のある現在よりも
「より便利に、より豪華に」を目指す、上向きのベクトルであった。その登っていく雲の上にあったのは、民主主義とともに世界中に輸出された
「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」の理想の暮らしのビジョンであり、「自由恋愛による核家族形成」「庭付き一戸建ての自宅」「生活家電」「マス・ファッション」が〈豊かさ〉と〈幸福〉の指標として緩やかにイメージされていた。
消費社会論と「理想の時代」
では、このころの消費社会論は、こうした熱に浮かされたような状況にどんな視線を注いでいたのだろうか。
大雑把な文明論・産業論的なものではなく、より社会学的な消費者行動論の先駆としては、アメリカの社会経済学者
ヴェブレンによる1899年の著作
『有閑階級の理論』がある。
ヴェブレンによれば、近代社会において
人々は、物をただ使用するためだけに消費するのではなく、互いに見栄を張り、より上位の階級にいることを誇示するような消費活動を展開するようになるという。
こうした階級を前提とした見せびらかしの消費行動をヴェブレンは
「顕示的消費」と名付け、とくに有閑階級と呼ばれる余裕のある豊かな層の人々に広まりつつあると説いた。
ヴェブレンのこの論考は、合理的で功利主義的な経済人をモデルとする古典派経済学の枠組みを否定し、一見すると無駄で不合理に見える富裕層の浪費ぶりを人類学的・民俗学的な視点から説明したものとして各界で大きく取り上げられた。
また、同時代人の社会学者
ジンメルは、
『文化の社会学』において、消費文化の一側面である「流行」について次のように述べている。
流行はつねに階級的な流行であること、上流の流行は下層の流行と異なり、
後者が前者と同化しはじめる瞬間に捨てられるという事実によって、
成功を確実なものにする。(Simmel, 1904=1976 :36)
ジンメルは、社会の下位者が上位者に追いつこうと真似する傾向と、追いつかれた上位者がまた別の流行へと移っていく交互の運動が、流行というモードを際限なく続けさせていくことを、
「トリクルダウン・セオリー(滴下理論)」と呼んで理論化した。
こうした消費社会論の中にも、生活の理想形に向かおうとする上向きのベクトルが反映されているのがわかる。自分よりも少しでも上の階層へと向けられた羨望のまなざしが、消費の欲望を天井知らずに喚起していく、その上昇運動の足がかりとして「階級」「階層」といった社会的地位が理論の中で指名されていた
A)。
変貌する消費社会
しかし、70年、80年代へと時が進むと、消費社会はさらなる別種の発展を遂げることになる。ここではその変化の背景を以下の二つに大分してまとめてみよう。
1.多くの人々の生活水準が、一定レベルの豊かさまで上昇したこと
2.環境問題・経済格差など、消費社会の「歪み」が表面化したこと
まず第一の点。豊かさの指標であった冷蔵庫、洗濯機、テレビの「三種の神器」は、60年頃のアメリカではすでにそれぞれ90%、73%、87%の普及率を達成し(間々田2000)、家事の効率性を飛躍的に向上させた。カラーテレビ、クーラー、カーの「3C」へとグレードアップすることになる。
しかし、こうした革命的な商品による「より優れた機能」、それによる効率性の達成は徐々に頭打ちになり、飛躍的な生活向上を生まない微細なバージョンアップとデザインチェンジが主流となっていく。
「ゆたかな社会」(ガルブレイス)(Galbraith, 1958=1960)の到来により、ある程度満たされた人々の欲求は多様化し、末広がりのように多彩なライフスタイルが営まれる。そこでは上へ上への志向性は脱色され、市民はより無邪気に・よりフラットに消費と戯れるようになる。
70年代からの百貨店文化を牽引したセゾングループでは、
コピーライター糸井重里によるPARCOの「おいしい生活」や「不思議、大好き」などの名コピーが生まれ、ほどほどに肩の力の抜けた消費生活の応援歌が謳われた。きらびやかなブランド品を無分別にページ横に列挙し続ける
田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』(1980)もこの時代の色を示す文学としてしばしば挙げられる。
第二に、「理想」に引っ張られるように豊かさを追い求めた大量消費社会の「ツケ」が表面化したこともある。1962年には
レイチェル・カーソン『沈黙の春』が刊行され、72年には国連の
人間環境会議(ストックホルム会議)が、「環境問題」を全世界的な共通のトピックへと変えた。貧富の格差の拡大を問題視した
スーザン・ジョージによる『なぜ世界の半分が飢えるのか』が著されたのは1976年のことである。
これらは消費社会の「夢」や「理想」から覚めることを人々に促し、「豊かな社会」の豊かさが決して十全な幸福へとつながらないことを知らしめた。森林伐採で砂漠化した荒野や栄養失調で苦しむ子供たちの映像は、欲望の素朴な肯定・解放としての奔放な消費活動にどこかしら「後ろめたさ」の影を背負わせる。
むろん人々の経済的な上昇志向が無くなったわけではないが、それらは「拝金主義」や「成り上がり」として、それもまたライフスタイルの一つへと平面化されていった。そしてそれに呼応するかのように、日本は73年にはオイルショックを経験し、高度成長期が終わりを告げる。
こうして、「一億総中流」とまで呼ばれた消費者の時代的まとまりとしての輪郭は薄れ、バラバラで多種多様な消費の在り方が喧伝され実践されていくようになる。80年台には電通のPR局長・藤岡加賀夫による
『さよなら、大衆。』(1984)や、博報堂生活総合研究所による
『「分衆」の誕生』(1985)といったエポックメイキングな著作がベストセラーとなり、これまで「大衆」の名のもとに大雑把にクラスター化されていたマーケティングは通用しない
多品種少量生産の時代へと突入することになる。
『消費社会の神話と構造』――記号消費論の衝撃
こうして、上へ上へと頭上を見上げ続けてきた消費者は、1.一定の「豊かさ」と2.の「後ろめたさ」を経由したのち、左右に広がる多様な生き方の「幅」を志向するようになる。このように大きく変化してきた消費社会の状況にしかるべき言葉を与えんとして登場するのが、フランスの哲学者・批評家
ジャン=ボードリヤールによる『消費社会の神話と構造』(1970)である。
ボードリヤールはこの著作の中で、現代社会の人々の
消費行動を「記号を用いた言語活動」として分析する、という画期的な考えを提示し、社会学界に限らずマーケティング業界においても熱狂的に迎え入れられる。
「記号」「神話」「差異」といったこれまでの理論にはなかった新たな道具立てを用いて消費社会を斬ったボードリヤールのアイデア、そしてそれが消費における〈わたし〉の全景化へとつながっていく道筋は、エントリー後半での主題となる。
【参考文献】
Baudrillard , Jean, 1970, "La Soci?t? de consummation"(=1995、今村仁司・塚原史訳『消費社会の神話と構造――普及版』紀伊國屋書店。
Carson, Rachel, 1962, "Silent Spring", (=1974, 青樹簗一訳『沈黙の春』新潮文庫)
George , Susan, 1976, "How the Other Half Dies: The Real Reasons for World Hunger"(=1984、小南祐一郎訳『なぜ世界の半分が飢えるのか―食糧危機の構造』
Galbraith , John Kenneth,1958, "The Affluent Society"(=1960、鈴木哲太郎訳『ゆたかな社会』(岩波書店)
Simmel, Georg, 1911, Philosophische Kultur. Gesammelte Essays, (=1976、円子修平・大久保健治訳『文化の哲学』白水社)
Veblen, Thorstein, 1899, "The Theory of the Leisure Class" (=1998, 高哲男訳『有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究』ちくま学芸文庫。
藤岡加賀夫、1984『さよなら、大衆。感性時代をどう読むか』
見田宗介、2006、『社会学入門――人間と社会の未来』(岩波書店)
間々田孝夫、2000、『消費社会論』(有斐閣)
博報堂生活総合研究所、1985『「分衆」の誕生――ニューピープルをつかむ市場戦略とは』(日本経済新聞社)
【脚注】
@)見田は、「理想の時代」の他に、1945年から60年を「夢の時代」、1970年からを「虚構の時代」と三つに区分し、成長期の日本の感性の変化を論じている。
A)その他、消費社会の文化を扱った社会学的著作としてリースマン『孤独な群衆』、ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』などが有名だが、いずれも論の射程は広く、紙幅の都合上ここでは触れることはできない。