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社会学のすゝめ 第8回「アクティヴ・インタビューと〈社会構築主義〉(後編)」

2012/04/24

タグ:社会学 小林祐児 アクティヴ・インタビュー

株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部  小林祐児(コバヤシ ユウジ)
 何が社会的に構成されるのか.jpg

「社会学って何をする学問なんですか?」

四月。桜が短い美しさを散らせるころに、大学の新入生たちが人生で初めて受ける「社会学入門」やそれに類する授業で、しばしば投げつけられる質問の一つだ。そして問いを受けた講師の答えは、たいてい次のようなものになる。

「社会学とは、みなさんが生きている暮らしの中の、当たり前だと思っていること――〈自明性〉――を疑う学問です」

前回のエントリにおいて、アクティヴ・インタビューという面接法の方法論を議論のきっかけとしつつ、社会学の学派の一つとしての〈社会構築主義〉について、その基本的考え方と80年代以降の隆盛までを紹介した。

ある事象Xは、自然的/客観的実在というよりも、社会的に構成(構築)されたものである。


「家族」「性別」「恋愛」といった卑近な事柄から、「国家」「近代」「歴史」といった大きな事柄まで、今まで自分たちの暮らしの前提として当然のように接していた事柄が、地域・時代・人といった社会的文脈によって異なる姿で構築されてきたこと。

そして、構築のされ方によっては、それらのあり方が自分の慣れ親しんだ姿から大きく異なっていること(異なるものになった可能性があったこと)。〈社会構築主義〉的な業績は、対象を異にしながらも、人びとにそうした気づきや驚きを与えてきた。

こうした効果を、「社会の自明性を照らす(それによって崩す)」くらいの意味合いに捉えるならば、それは、先ほど描写した授業風景のように、「社会学」という学問の営みの最小公約数的なモチーフへと接近していく。「社会構築主義的発想」は、「社会学的発想」と多くのところで重なりあいながら、前回紹介したような、広く大きな流れを形成していった。


■「オントロジカル・ゲリマンダリング」と〈社会構築主義〉の陥穽


こうして(社会学全体の輪郭に接近しながら)広がっていった社会構築主義的な志向には、多くの批判と問題点が指摘されてきた。その中でも最も議論を呼んだのが、スティーブ・ウールガーとドロシー・ポーラッチ(Woolger & Pawluch 1985=2006)が投げかけたオントロジカル・ゲリマンダリングontological gerrymandering」とよばれる問題である。

※「ゲリマンダリング」とは政治用語で、「(政治家や政党が)選挙区を自党に都合の良いように区分けすること」にあたる。1812年、米マサチューセッツ州知事E =ゲリーが自党に有利につくった選挙区の形が、想像上の怪物サラマンダー(火蛇)に似ていたことに由来する。「オントロジカル」は哲学用語で「存在論的」。
 
〈社会構築主義〉に向けられた、オントロジカル・ゲリマンダリングの批判ロジックはおおよそ次のようなものである。


社会構築主義者が、対象Xの定義が様々に変わることを発見しつつ、「Xは社会的に構築されている」という指摘をするためには、少なくとも《その社会構築主義者にとっては》Xは固定されていなければならない。

そもそも対象Xを「X」と呼ぶことができなければ、Xが「社会的に構築されている」とも言えないからだ。だが、その社会構築主義者によるX=Xの指し示しも、結局一つの「定義」なのではないか?それは、社会的文脈によって様々に異なるその他の「定義」とどのように違うのか?社会構築主義者は、その線引きを勝手に行なっているのではないか?【下図参照】

オントロジカル・ゲルマンダリング.png

 オントロジカル・ゲリマンダリングは、〈社会構築主義〉への決定的な批判として現れ、多くの後続の議論を巻き起こした。社会構築主義者側からも様々な応答が見られたが、統一的な回答は得られていない(※1)。

社会生活の中で関わる多くの事柄は、社会的に構築されている(故に可変的である)という社会構築主義的なロジックは、おそらく正しいものだ。

だがその立場は、同時に自らの首も絞めることになった。結局のところ、〈社会構築主義〉的な梯子外しのロジックは、社会学の特異点とも言うべき、「社会学者も、社会の外へはでられない」というアポリア(行き詰まり)の前に、その驚きやショック効果を減じてしまうことになった。
〈社会構築主義〉は、流行すればするほど、「Xは社会的に構築されているのはわかった。……だが、それがどうかしたのか?」という反撃に合うことになってしまった。

今をさかのぼること数年前、私が社会学の修士過程に入学した時、社会学の分野は、〈社会構築主義〉が荒らしまわったあとの"荒野"と呼ばれていた。〈社会構築主義〉は、科学哲学者イアン・ハッキングは、「かつては素晴らしいショック効果を誇っていた社会構成というメタファー。だが、いまやそれは退屈な比喩になりさがってしまっている(Hacking 1999=2006:86)」と揶揄していた。

〈社会構築主義〉の現在的課題は、「Xの構築のされ方」についての経験的な業績を積み重ねつつも、「では、いかに構築するべきか」という次のステップへの示唆を引き出せるような視点を含ませることにあるように思う。社会学という(一応)社会科学の一つとしての倫理的立場とのバランスもとりつつ、という難しい課題だが、少なくとも何らかの実践的示唆を引き出そうとすると、そうした視点は不可欠になってくる。


■もう一度、アクティヴ・インタビューへ

アクティブインタビュー.png

 ここまでの議論を踏まえつつ、前回紹介した「アクティヴ・インタビュー」に戻ろう。
 
社会構築主義的な発想に基づいて提起されたこの方法論は、対象者の「回答」が、対象者とインタビュアーとの相互作用によって構築されることを強調していた。「回答」は、対象者の内部から言葉によって運ばれる「伝達物」ではなく、インタビュアーとの意味の交換によって様々に構築されていく。

アクティヴと見做された回答者の背後にある対象者は、事実と経験の内容を保存しているだけではなく、まさに回答としてそれを提供する過程において、それに何かを建設的に付け加えたり、何かを取り去ったり、変えたりするのである。(Holstein=Guburium, 1995,31)

 伝統的とアクティブインタビュー.gif


■「構築的」の意味と意義


しかし、社会構築主義が陥ってしまう陥穽は、アクティヴ・インタビューにも当てはまる。「回答」だけではなく、「インタビュアー」の立場も「対象者」という役割も、社会的に構築されているはずだ。それならば、「回答は構築されているのはわかった。……それがどうかしたのか?」と肩をすかされてしまう。

言ってしまえば、「回答は相互作用による(社会的)構築物である」というテーゼは、それだけでは単に、調査を実施する側の「認識的」問題にとどまるものだ。そしてそれは、おそらく社会構築主義がその「正しさ」によって流行したのと同じ意味において「正しく」、そしてその延長線上において「面白くない」。

社会構築主義の陥穽から学び、「認識的問題」から、アクティヴ・インタビューという「実践(方法)」へとジャンプするためには、「どうやって」構築するか/するべきか、が焦点になる。結局、アクティヴ・インタビューの真価は、「回答が社会的に構築される」という社会構築主義的な発想自体には無く、構築的/構築的でないという認識の違いから、何が「方法」として立ち上がってくるかにかかっている。



■アクティヴ・インタビューの示唆 ――「純粋な回答」の失効――


面接法における「いかにして回答を構築するか」の重視。だがそれは、
社会学・人類学のフィールド・ワーカーから、マーケティング・リサーチにおけるインタビューのモデレーターまで、面接調査を用いる調査者らがすでに様々な試行錯誤を積み重ねてきた場所まで戻ってきてしまうように見える。

周知の通り、優れたインフォーマントの確保も、アイスブレイクのためのワークショップも、「いかにして有効な回答を引き出すか」の課題に対する伝統的な工夫として編み出されてきた。

ただ、「アクティヴ・インタビュー」の「構築」というモチーフから得られる示唆が無いわけではない。
私見では、彼らの認識的な命題から導き出される最も大きい示唆は、「純粋な回答」という考え方を捨てることにある。

先ほど引用した言葉の後、ホルスタイン=グブリウムは次のように続ける。

  実際、回答者は主体的に関わって作り出していることを、自ら「損ねる」ことなどほとんどありえないことである。〔訳注:オリジナルがあれば変形すると損なわれるが、オリジナルが存在しない以上、損なわれることはありえない〕

ここで言う「オリジナル」とは、伝統的なインタビューが想定していた「純粋な」「まじりっけ無しの」「調査の影響がでる前の」「アンバイアス」な回答のことである。
だが、「調査へ回答する」という経験そのものが、逃げようもなく「社会的」な営みであることを思えば、どんなに形式的に抑制の効いた調査方法を取ろうとも、そう言った意味での「純粋な」回答など、誰も見たことがないはずだ。「構築されている」という主題で照らされるのは、反対側にある「構築されていないもの」の姿である。



■マーケティング・リサーチへの示唆


ここからは、マーケティング・リサーチに話を限定してみよう。

マーケティング・リサーチに従事している人ならば、先ほどの「アンバイアス」で「オリジナル」の回答とは、「現実の購買決定の時の意見」だと想定するかもしれない。しかし、少し考えてみれば、現実の購買行動ほど、「社会的」なものはないことはすぐわかる。

購買行動は、あまりに多くの社会的文脈に埋め込まれた行動であるし、店頭やWeb・パッケージ・広告などのマーケティング戦略が俗に「コミュニケーション」と呼ばれることを思ってもいい。「純粋な購買行動」の存在も想定しづらいし、しかもそれが「純粋な回答」と重なりあうことは、もっと想定できない。


「純粋な回答」という考え方を捨てること。それが強すぎるならば、何を「純粋な回答」として仮定するべきか、に考えを及ばせること。その示唆を、マーケティング・リサーチの「クライアントの利益に資する」という第一義的目的と考えあわせれば、リサーチャーは、今大勢を占めているような、「バイアスを防ぐために」様式的に確立された一般的方法論から離れた発想を持つことができるかもしれない。


具体的に言えば、


・マーケティング・リサーチが行う「グループインタビュー」「デプス・インタビュー」はたまた「MROC」においても、モデレーター役の人間はもっと自己開示を試みてもいいのではないか?

・最近話題の「ゲーミフィケーションの調査への応用」によって危惧される「回答の偏重」は、それほど恐れることはないのではないか?



具体的発想は人の数だけあるだろうが、少なくとも、リサーチの実務家が「回答へのバイアス」という言葉を口にする時、その裏に張り付いているはずの「バイアスのない回答」とは、一体どういったものなのか?対象者が「調査の前に」保持している(と仮定されている)回答の姿とは?これまでの一般的な調査が暗黙のうちに前提していた「純粋な回答」の「自明性を疑うこと」(!)。アクティヴ・インタビューと社会構築主義のアイデアは、そうした機会をリサーチャー一般に与えてくれるように思う。


【注】
(※1)社会構築主義の陣営(陣営というほどまとまりのあるものではないにしろ)からの対応は、おおよそ2つに分かれる。「厳格派」と「コントテクスト派」と呼ばれるものがその2つだが、内容については『新版 構築主義の社会学―実在論争を超えて―』(世界思潮社)所収の田中耕一の論文がまとまっている。


【参照文献】
Hacking, Ian 1999, The Social Construction of What? Harvard University Press.(=2006,出口康夫・久米暁訳『何が社会的に構成されるのか』岩波書店.)
Holstein, J.A. & J. F. Guburium, 1995, The Active Interview, Sage、(=山田富秋・兼子一・倉石一郎・矢原隆行訳『アクティヴ・インタビュー―相互行為としての社会調査』(せりか書房)
Woolger, S. & Pawluch, D, 1985, "Ontolical Gerrymandering: The Anatomy of Social Problem Explanations", Social Problems, 32: 214-227.(=2006,平英美訳「オントロジカル・ゲリマンダリング――社会問題をめぐる説明の解剖学」平英美・中川伸俊編『新版 構築主義の社会学』184-213,世界思想社.)