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社会学のすゝめ 第19回「広告の社会学―SとRの前にあるもの―」

2013/04/18

タグ:小林祐児 社会学

株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部  小林祐児(コバヤシ ユウジ)

テレビ、モバイル、パソコンの多様なメディア時代を迎え、マス・メディアから口コミ(ソーシャル)への移行、国民生活時間調査ではテレビの「ながら視聴」が話題になり、「コミュニケーション・プランニング」の文字が踊る中、広告業界はリサーチ業界よりもさらに大きい振れ幅で揺れているように見える。

広告業界は、電子化し拡散していくメディアの様態に合わせて、様々に新しい接点を創り出している最中であり、多くのクリエイティブな仕事がなされると同時に、いわゆる「ステマ」のような広告倫理をめぐる新しい問題も同じ場所から発生してきている。

マーケティングを旨とする広告活動という営為にとって、常に最後の目的地であるのは「効果」の問題系である。

「どんなに印象的な広告でも、最終的に商品を売ることができない広告は意味がない…」

このように広告について語るとき、その「効果」こそが暗黙の/明示的な了解となってきた。
クリック数とコンバージョン率へと数的に還元されるA/Bテストに代表されるように、ネットだろうが他メディアだろうが、寄り添うモデルがAIDMAであろうがAISASであろうが、最終的には受け手としての消費者から購買・共有といった「行動Action」を引き出すことが広告活動の本懐であり、広告についての議論のゴール地点となってきたことに異論を挟む余地はない。

広告業界にROIの考えが厳密に適応されればされるほど、「効果」の落とす影の面積は広がりを増してきた。


■広告のSRモデル


そうした広告の〈絶対基準〉の背後にある前提は、古典心理学で言うところの行動主義が打ち出したいわゆる「SRモデル」に還元できる。

SRモデルは、すでにマーケティング用語としても以前から取り入れられているので聞いたことがある方も多いかもしれない。ベルを鳴らすと反射的にヨダレを垂らすようになる犬の動物実験「パブロフの犬」に影響を受けたJ.B.ワトソンが提唱した、刺激Stimulusとそれへの反応Responseによって心的現象を実証的に解明ようとするモデルである。

広告、パブリシティのマーケティング論の中では、SRモデルが広告に(多くの場合非明示的に)適応されつつ、広告という刺激Stimulusが与えられた時のそれに対する消費者の反応Responseという、送り手からの刺激によって被る受け手の影響関係が測られるわけだ。

このSRモデルという認識図式とそれによって「効果」を語ることへの必然性が、広告を語るときの最も強固な地平を形成している。

むろん、こうしたモデルは、物事についての理解の枠組みとしてとても役に立つ。SとRの間の決定係数を測定するという発想は、このモデルを採用しない限りでてこないものであるし、なにより広告を論ずるときの「最終回答」としてのわかりやすさを提供できる。


しかしここ「社会学のすゝめ」では、SRモデルを前提に広告を語るとき、取り逃がしてしまうものが必ずあることに目を向けたい。モデルは常に、モデルそのものの仮構性を問題から排除してしまう(※1)。

それは、Stimulus(広告)とResponse(購買行動)の2つの間の「→」の強さ(決定係数)の問題をずらした上で、送り手の広告を「S」とし、受け手の行動を「R」と設定してしまった瞬間に、広告への眼差しからこぼれ落ちるものへ向けられる視線である。そのこぼれ落ちるものをすくい上げる柄杓として、社会学は、数多くの広告論・マーケティング論とは異なる手腕を発揮してきた。

広告の長い歴史の中で、すでに多くの広告研究や広告史研究が著されてきたが、管見の限りにおいて北田暁大『広告の誕生』の視座は上記のような「社会学的」な示唆に最も満ちた一冊である。以下、北田の論に従いつつ、「SRモデルを前提しない視点から」広告と社会の歴史をかいつまんでいくことで、今回の社会学のすゝめとしたい。


■マス広告の誕生と引札


広い意味での「広告」の歴史は古い。

何かの伝達意図を持って公共的に情報を提示するという意味では、立て札や暖簾なども広義の広告にあたるが、複製技術を用いて多数の人間に向けられたマス広告の原初的な形態としては、江戸時代の「引札」に着目する論者は多い。

引札とは、いわゆる"チラシ"である。踊り念仏で有名な鎌倉時代の僧侶一遍上人が出したものにその原形を見ることができるが、17世紀、江戸初期に「現金安売り掛け値なし」との謳い文句とともに越後屋三井八郎右衛門によって配布されたものが、商業的な引札の萌芽とされている。

カラフルで発色の良い江戸後期の引札は、いまでも熱心な収集家が存在し、ときおり展覧会なども開かれているので実物を見たことがある方もいるかもしれない。

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■江戸後期1862(文久2年)の引札(作・歌川芳艶)


また、もう一つ、このころ江戸時代の宣伝活動としては、洒落本、滑稽本、談義本、人情本、読本、草双紙などの「戯作」と呼ばれる文芸作品が挙げられる。

社会風刺や滑稽な描写を主な題材とする、庶民のための娯楽的読み物であった戯作は、それ自体広告的なものではない。だが、人気を博し始めた「戯作者」たちの中には、その内容の中に、特定の商品情報を散りばめるようになったのである。

式亭三馬、山東京伝、滝沢馬琴などが現在まで名高い戯作者として知られているが、彼らは友達や商店の商業広告を文中にさりげなく織り交ぜたり、あるいは戯作の登場人物の口から台詞として(!)特定商品のほめ言葉を言わせたりしている。

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■戯作(黄表紙) 恋川春町1775『金々先生栄花夢』


当時の戯作者たちの庶民的な人気ぶりを考えてみても、これは今で言うところの有名人ブログにおける「ステマ」現象にかなり似通っている。すでにスラング的になっているステマ(ステルス・マーケティング)を、「広告であることを明示せず、無関係の第三者を装いつつ特定商品の宣伝やプロモーションを行うこと」とでも定義しておけば、この戯作者たちの行為は、かなりの部分がその定義と重なりあう。

しかし、現象としての外見が似ているからこそ、そこでの異同は十分に確認される必要がある。

上にあげた引札、そして戯作という江戸期の広告的な活動と現在の広告とで大きく異なるのは、戯作も引札も、「音読」の文化を前提としつつ、音韻やリズムを重視した内容を持ち、聴覚を含めた全身体的なパフォーマンスをもその受容空間のなかに含み持っていたことだ。

引札は口上や台詞を多く引用し、鯛や恵比寿様などのおめでたい柄が好んで描かれ、戯作も、行商人らの口上などを写しとったりするなど、江戸期の庶民の娯楽的な「遊動空間」をそのまま印刷物として二次元化したような性格をもっていた。
商業的な情報を素材として用いつつも、それらは町人仲間たちの交流を促すようなメディアとしての性格が強かったわけだ。

つまり、そこから導かれることは、次の2点だ。



【1】 江戸期における広告的なメディアは、未だ「受け手」と「送り手」がおなじ視点のコミュニケーション上で共時的に戯れるための契機として機能している。言い換えれば、庶民が送り手たる作者と同等の位置で享楽的に受け取る、いわば「ネタ」としての性格が強かった。

【2】 それは、当時の受け手となる庶民たちが、未だに現在の意味でいうような「広告であるもの/広告でないもの」という確固とした区別、線引きを把持していなかったことを示している。



江戸時代までの「引札」「戯作」といった広告らしきコミュニケーションでは、送り手(資本)から受け手(消費者)へ、という「S→R」の認識モデルが送り手にも受け手にも十分に発達していないことはおろか、受け手にとって「広告を、広告として見る」身体技法すら未分出であった。

そこでは、広告の第一義的な目的は、それが売上に貢献する意味での「効果」ではなく、戯作や香具師たちと、受け手たる町人たちが共時的に演出し・戯れ、娯楽性を享受するコミュニケーション空間そのもの、またはその写し絵であったのだ。

ここに、SRモデルを持ったまま広告の歴史を眺めてみるだけでは見えてこない、こぼれおちた何かの一片を感じとってもらえるだろうか。

では次に、そうした「広告を、広告として見る」現代に通じる受け手の身体技法の発達がいつごろ分出されてきたのか。明治に入り新しいマス・メディアとして華々しく登場することになった、新聞メディアを例に取って見てみよう。


■岸田吟香「精綺水」広告


明治時代に入り、文明開化の気炎とともに勃興した新聞メディア。その最初期の歴史を彩る人物の一人に、岸田吟香という文筆家兼実業家の名がある。

岸田吟香.JPG
■岸田吟香近影

吟香は、来日したアメリカの宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンを助け、日本最初の英語で書かれた日本語辞典である『和英語林集成』を編纂し、『横浜新報・もしほ草』などの冊子型新聞を発行。さらに、ヘボンから処方を学んだ日本初の洋式目薬である「精綺水」を発売開始した、文明開化の寵児たる人物である。

まさに明治初期のメディア環境の主要登場人物として名を残した吟香であったが、1874年、自身が主筆をつとめた東京日日新聞に掲載した精綺水の広告は日本広告史に残る業績として名高いものである。

東京日日新聞.gif
明治7年4月12日 東京日日新聞
 
今見ればなんという事もないこの広告が当時において画期的だったのは、視覚的な差別化の企図の存在である。具体的には、すべて5号活字のベタ組みばかりであった当時の新聞の印刷レイアウトに、初めて2号活字が使われたのはこの精綺水広告が端緒であった。

こうしたレイアウト上の視覚装置の発明とともに、精綺水広告からわれわれが見いだすことができるのは、読み手にとっても、送り手にとっても、コンテンツたる「記事」と、商業情報としての「広告」がはっきりと機能分化した、現在あるような「広告」への認識区分が誕生していることである。


さらに、ようやく「広告」らしい様相、つまり、「地の情報」と「図」の情報の差異が明確化され始めたのと同時に、ここでようやく「読者の目にとまること」への意図が明確に広告の中に現れてきていることも指摘できる。

複製技術を用いていたとはいえ直接市民らに手渡されることの多かった江戸期の引札と異なり、不特定多数の読者に向けられ多くの雑多な情報量を包含した新聞という当時のニューメディアに寄生した広告は、記事と記事の間をすばやく移動してしまう気まぐれな読者の目をなるべく長く我が身に引き止めたいという欲望をその立ち振る舞いに現し始めたのだ(※2)。

ここで、現在のテレビが抱える「ながら視聴」の問題圏を発生させるような、「ふらふらと情報の間をすり抜けていく、移り気な受け手」という受け手の像が、広告というメディア史上で初めて想定されることになったのである。

「広告と、広告でないもの」の区別の明確化。そして、広告活動における「受け手の注意喚起」の前景化。この2つの意味で、岸田吟香が残した広告の歴史社会学的な意義はきわめて大きい。そしてそれは、広告という営為が〈S〉と〈R〉で固く結ばれてしまう「以前」のあり方として心に留めておきたい姿である。


以上、その後世界でも稀なほど統一的なマス・メディアとして大きく飛翔していくことになる日本の新聞というメディアの中で、広告は広告らしい姿を持ち始めたことを見てきた。


しかし、まだ現在の広告からはまだ距離がある。

その距離の間にあるのは、一つには、反応Responseする受け手が、「消費者」という送り手によってターゲッティングされるべき像へと確定していくこと、またもう一つには、「広告」を広告自身が自己言及的に語り始めること。

それによって、広告と社会をめぐる一連の歴史はさらなる大きな変異を被っていき、それらは現代まで連なる〈広告論〉の磁場を形成していくはずだが、それらを追うことは、次回のエントリの課題となる。



【脚注】
※1 SRモデルを提唱した行動主義心理学は、人の思考や感情、動機、意図などの観察不可能な心的現象を捨象して、観察可能な「行動」から心理学を実証的なものへと方向づけようという企図に満ちていた。そうした周辺情報を捨て去ってしまうことによってこそ、モデルはモデルとして機能する(認識利得を発揮する)。

※2 北田の議論に従うならば、このような注意が散逸した状態で町や商業空間を闊歩する人々=消費者の振る舞いを、〈気散じZerstreuung〉と呼び、ボードリヤールなどの消費社会論と接続しうる視点をあたえたヴァルター・ベンヤミンの議論を参照したいところではあるが、紙幅の関係上、注釈として言及するに留めたい。
 
2013/04/18
タグ:小林祐児 社会学
category:社会学のすゝめ