企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児
一般的に喧伝された行動経済学の発想のコアは次のようなものだ。
マックス・ウェーバーによる高名な【行為の4類型】が、「目的合理的行為」「価値合理的行為」に加えて、「感情的行為」「伝統的行為」と不合理的な類型を含み持つことを諳んじてもわかるように、そもそも社会学の基本的な発想では、人の合理的な選択が行為全体の一部にしか過ぎないことが前提されてきたからだ。
唐突だが、ここで想像してほしい。今あなたの前に、金髪ブロンドで日本語ペラペラの外国人男性があらわれたとしよう。
まずは、18世紀後半ごろ活躍したデヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、デヴィッド・リカードといった「古典派」と呼ばれる経済学者にとって、貨幣がどのようなものだったかを確認しよう。
貨幣の「起源」によりせまる議論の系譜としては、歴史上、次の2つの説が優勢な立場を保ってきた。
では、貨幣を貨幣たらしめているものは、一体何なのだろうか。なぜ、市場の売り手は、それ自体モノとして使えない紙切れをそれ自身で使い道のあるモノと交換する気になるのだろうか。実はここに、今回のエントリの最大の「不合理」がある。
売り手がモノと貨幣を交換するのは、「将来のいつの日かに、だれかほかの人間がその一枚の紙切れを一万円の価値をもつ貨幣としてひきうけてくれるからである、いや、ひきうけてくれると期待しているから」(岩井1993,192)である。
貨幣の「跳躍」の不合理性をより際だたせるために、ここで、論理哲学の有名なパラドックスを紹介しよう。それは、「抜き打ちテストのパラドックス」と呼ばれている。やや長いのでウィキペディアから引用してしまおう。
「来週の月曜日から金曜日までのいずれかの日に抜き打ちテストを1回行う」。
すべては教師の予告通りになったのだ。
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ここで、上の例にならい、また簡単な思考実験をしてみよう。
どんな文明も永遠の命をもたないがために、いつか必ず、私たちの貨幣が使えなくなる日はやってくる。「そのいつかはすぐ来ない」と思うだろうが、その「いつ来るかがわからないが、必ず来る」状況は、上の実験とまったく同じことである。
貨幣の寿命。それは、最後の審判の日、貨幣が停止する日が「決してやってこないだろう」、そしてそのことを「次の受け手も信じるだろう」というあまりに不合理な予想をいつまで引き伸ばせるかにかかっている。その不合理を〈隠蔽〉し通すことが、すべての貨幣が背負っている宿命=ミッションである。
その失敗は、貨幣の価値が極限まで下がる、ハイパーインフレの事態として現実化する。受け取った貨幣が、次に貨幣として使えることへの信頼が揺らいだ時、つまり不合理さの〈隠蔽〉が失敗した時、貨幣はその価値をどこまでも下げていき、いつしか貨幣として流通するのをやめ、経済の営みは停止する。
【脚注】
※1 一般に流行した行動経済学的発想の事例として紹介されている中には、合理性の問題を歪曲しているものも散見されるので、注意が必要だ。実際に見かけた例としては、「7000円の野球のチケットに30000円払う」という行動は、古典経済学的な意味を前提にしたとしても「不合理」な行動とは言いがたい。それは単に商品の効能の基準が人によって異なるだけであり、行動経済学的な発想にない。


