Recent Entry
Archives
Back Number
Tag Cloud
検索
 

社会学のすゝめ 第28回「ナラティブ・アプローチーー「物語」の効能」

2014/02/07

タグ:小林祐児 社会学

株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児
藪の中.jpg


1922年に書かれた芥川龍之介の小説に、「藪の中」という短編がある。黒澤明の映画「羅生門」の原作としても知られ、芥川の中でも珠玉の短編だ。

藪の中から見つかったある死体を巡って、検非違使に尋問される証人と当事者たち。死体の発見者の木こり、目撃者たち、死んだ男の霊、殺された男の妻、そして、容疑者で盗人の多襄丸が、事件について起こったことを証言していくだけの小説である。

それぞれが藪の中で起こった事についての生々しく真実味のある顛末を語っていくのだが、驚くことに、それぞれの内容は全て矛盾しあうものだった。死んだ男は自分は自害したのだといい、男の妻と多襄丸はそれぞれ自分が殺したと言う。当事者各人が自分に不利になる内容を語っており、嘘をつく動機もまったくわからない。そして謎は謎のままで放置され、死霊が語り終えた時、小説は終わる。真相は、藪の中……。


■ナラティブ「物語」という概念について

ナラティブnarrativeという言葉はあまり耳慣れない方もいるかもしれないが、名詞化した「ナレーションnarration」を想起してもらえればわかりやすい。ナラティブは、「物語ること」「という意味を持つ言葉で、ストーリーや語りなどを広く意味する言葉として使われている。
ナラティブのイメージ.jpg


そして、90年代以降、「ナラティブ/物語」は小説やドラマ、戯曲の世界から飛び出し、各所で注目を集めている。最初にナラティブの新しい活用法を発見したのは、臨床心理の現場であった。


■ナラティブ・アプローチとは

1990年代、「ナラティブ・アプローチ」という名を冠された臨床心理の新しい方法論が、「ナラティブ/物語」をカウンセリング・セラピーの重要な要素として採用し始めた。この「物語」の臨床現場への導入に大きく貢献したのは、90年に上梓されたオーストラリアのマイケル・ホワイトとニュージーランドのディヴィッド・エプストンの著作、『物語としての家族』である。
 
物語としての家族.png

ナラティブ・アプローチの発想の核は、「人は、自分の人生の経験に、物語を通じて意味をあたえる」というものだ。
人々の体験やできごとは、「データ」や「値」のような個別のことがらではない。人々は、それらを線的につなぎ合わせることで意味的に理解し、認識の基礎として保持することができるようになる。ナラティブ・アプローチは、患者(クライアント)からこうした「物語」の語りを引き出し、それを通じて精神的な回復の手助けを目指していくものである。


■物語の3つの性格


ここで、「物語/ストーリー」という言葉の中身をもう少し厳密にみてみよう。
「物語」を辞書でひいてみれば、「さまざまの事柄について話すこと。語り合うこと。また、その内容。」(大辞林より)とされている。
大雑把すぎて役に立ちそうにないこの定義を一旦脇に置きつつ、「物語」という言葉から本エントリの文脈から重要と思える次の3つの性格を抽出してみよう。

 1. 物語は、「時間」によって配置される
 2. 物語は、「他者」に向かって語られる
 3
. 物語は、「編集」される

例えば、次のようなことが起こったとしよう。

 「Aさんは朝寝坊してしまう」
 「Aさんは朝食として食パンを咥える」
 「Aさんは走って学校まで登校する」
 「Aさんは曲がり角でBくんとぶつかる」
 「Aさんの教室でBくんが転校生として紹介される」
 「15年後、AさんとBくんは結婚する」

これらはそれぞれ、個別の出来事として生じているが、それぞれ個別の出来事として理解されているわけではない。それらの出来事は、「時系列」につなぎ合わされ、因果関係を付与され、価値情動を身にまといながら、「青春時代における夫との運命的な出会い」といった結婚のエピソード、つまり「物語」として、「他者」に語られるようになるだろう。この物語をつうじて、Aさんは上のようなバラバラの出来事を、ひとつなぎの連続性をもった体験として理解・把持することができる。

だが、この腑に落ちやすい、祝われるべきエピソード/物語も、すべて語り手によって「編集」されている。
「朝寝坊してしまう」は、その周辺におそらく散らばっているだろう出来事、例えば「夜更かししてしまった」「持ち物の用意をしていなかった」といった出来事と組み合わせ、「Aさんの怠惰な学生生活」といった物語で理解することもできるし、「寝坊した上に、曲がり角で人とぶつかるなんて、なんてついてない日だ」と、自分の不運を嘆くストーリーにもできる。

このように、物語/ナラティブは一枚岩ではなく、視点や構成を変えることで全く違うものになる可能性に常に開かれているという性格をもっている。そして、ここでのポイントは、「ありのままの物語」など存在しないことだ。

事実を事実として、「ありのままの、単一の物語」を紡ぐことができない。それは、「意味」を介して出来事を理解するしかない人間の脳の限界(と可能性)である。常に他者に向かって発される物語は、たとえ同じ出来事について語っていたとしても、編集の仕方を変えることで変化する、文脈依存的な性格を持っている。ゆえに人は、「真実の物語」を語ることはできたとしても、「真実」そのものを語ることはできない。このことについてはまたのちほど触れることになるだろう。


■ドミナント・ストーリー/オルタナティブ・ストーリー

ナラティブ・アプローチは、臨床の現場でいかにして使われたのだろうか。その援用について考える前に、このことにはすこし触れておいたほうがいいだろう。

ホワイト=エプストンは、フランスの社会学者ミシェル・フーコーの知についての議論を援用しながら、患者の状況を支配している一般的な物語を、「ドミナント・ストーリー」と呼んだ。ドミナント・ストーリーとは、患者が置かれ、多くは精神的な苦痛の源泉となっている、当該の場に支配的なナラティブである。

例えば、「女・子供は家庭内で家事をする役割を担うべきだ」は各地の家庭で広くみられるドミナント・ストーリーとされる。しかし、これが物語である限り、それは覆すことが可能な可変性と文脈依存性をもっている。家庭内の様々な問題の背景には、往々にしてこうした一般的で真実のように見えるストーリーがある。そして、ナラティブ・アプローチはこの患者の苦しみの源泉となっているドミナント・ストーリー発見し、その座から引きずり下ろすことを目指していく。

ドミナント・ストーリーに支配され、硬直化した患者の心理状態を探りながら、「オルタナティブ・ストーリー」と呼ばれるそれとは別の物語を創生し、発見していくこと。そして、それによって患者心理の好転のきっかけを探っていくこと。ナラティブ・アプローチ、ナラティブ・セラピーを行うカウンセラーやソーシャルワーカーらはこうした物語の概念を、現場の実学的な実践として患者の援助に取り入れていった。


■ナラティブ論の展開

「走ることについて語るときに僕の語ること」

レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」を元ネタにした村上春樹のエッセイのタイトルだ。このタイトルが不自然なまでに直截的に示すように、「物語」には、主題・語り手・聞き手が存在することが常である。ナラティブ/物語をもう少し私たちのフィールドに近づけてみる前に、野口(2000)が行ったナラティブの整理を見ておこう。

 
ナラティブ分類.png


この表を見ながら頭を整理すると、マーケティング・リサーチが行っているアンケートやインタビューのほとんどが、対象者がリサーチャーに対して「自分(とその行為)」について語る、【A】のタイプのナラティブ/物語であることがわかる。アンケートやインタビューでもときには「○○という人についてどう思いますか?」といった【B】タイプの間接質問を行うこともあるが、多くは【A】の形式をとると言っていいだろう。ここでスポットがあてられる語りにタイトルをつけるなら、「わたしについて語るときに、わたしが語ること」、だ。

そして、このナラティブ・アプローチの考え方を「わたしについての、わたしの語り」を解読するための社会学な応用に利用しようとするのが、2000年代ごろから起こった物語論的自己論の流れである。


■ナラティブ・アプローチを社会的自己論へ

浅野智彦は著書『自己への物語論的接近』において、臨床心理から発展した「ナラティブ」を核とした物語論の方法論を、社会学的自己論へと接続させる試みをしている。その中での主張は、浅野自身によって次の2点に簡潔にまとめられている。

自己物語論2点.png
 
一つ目の点から見ていこう。浅野によれば、「自己は、物語によって産み出される。
この論点は、ジョージ・ハーバード・ミードらが提唱したシンボリック相互作用論の流れの中で自己概念を研鑽させてきた社会学的自己論の文脈に接続させることができる。そこで強調されてきたのは、自己が「他者との関係」から産まれてくる、という点と、その自己の「非中心性」である。

社会学的な文脈では、自己とは、一般的に考えられているような行為や意思の「絶対の中心」ではない。チャールズ・クーリーの「鏡に映った自己Looking glass Self」論や、ミードの「自我(I)/他我(Me)」の議論が論じてきたのは、人は、他者との社会的な関わりの中で、自己の像を形成していくということである。

物語としての自己論も、他者との意味のやり取りにおいて形成されていく自己、という知的文脈を継承している。
自己が物語を通じて産み出されるということは、まず自己があって、その自己が自己について語ることとは違う。「自分自身について語るという営みを通してはじめて「私」が産み出されてくるのである。(浅野 2000,6)」 その形成されていく自己が中心にあるように見えるのは、それらの物語が、「私」を中心として編まれているからに過ぎない。

ここで浅野の論点は、以前紹介した社会構築主義に大きく接近しながら、「物語」という概念の特質によってより一歩踏み込んだものになってくる。


■語りえないもの、という視点

浅野がいう第二の点は、ややわかりにくいだろう。自己物語が、「語り得ないもの」を前提にしている、ということはどういうことだろうか。
さきほど、物語の特徴の三つ目として「編集」を取り上げておいた。ここで浅野が着目するのは、この「編集」は「語りえないもの」を隠蔽するように行われるということだ。少し詳しく見てみることにしよう。

その「語り得なさ」は、「わたし」が「わたし」を語る、という2つのわたしの位置が生み出す矛盾から産まれてくる。物語によって「自己」が形作られていくのにもかかわらず、その物語を語るのが「自己」自身であるということ。ここに自己の物語論の大きな逆説がある。簡単に図にすると、次のようになる。
 
自己物語の構造.png


図のように、自己物語は常に、「語る自己」が、「語られる自己」との連続する入れ子構造になる。自己が語りによって形成されることと、語られているのが自己であることのパラドクス。このことが、自己物語に必然的な「語りえないもの」を発生させる。そして、それは物語として隠さなければならない矛盾となって表出する。

例えば、浅野はここで「元アルコール中毒患者」の例をとりあげている(2000, 17)。この元患者が、「わたしはかつて、アルコール中毒者だった」と当時の苦しみを真摯に語る時、それは、「今の自分と過去の自分は違う」ということを前提としている。そうでなければ、この物語は前提から破綻してしまう。ただ、それは同時に、「全く違う自分」であってはならない。全く違うのであれば、そもそも過去の自分を語る資格が、現在の自分にあるのかどうかが怪しくなる。都合よく事実をねじ曲げているかもしれないし、「アルコール中毒者だった」という過去の真偽すら疑われてしまうだろう。

このように、「私について私が語る」構造の自己物語は、語る自己と語られる自己の間にある〈切断〉と〈接合〉の二重性、〈連続性〉と〈非連続性〉の二重性をうまく処理しなければならない

浅野によれば、伝統的には、アウグスティヌス以来の自伝文学が採用してきた「回心」の体験が、この自己物語の困難な二重性を処理してきた。
「私は、過去の私と同じ〈私〉である。と同時に、〈回心〉した〈新しい私〉であるーーだからこそ私について、私が語る資格があるーー」という「回心」体験の生み出すロジックによって、語るものにとっても、語られるものにとっても、自己物語のパラドクスは自然な形で覆い隠されてきた。先ほどのアルコール中毒者の例でも、私は中毒体験を「克服」した「新しい私」である、という「克服」のロジックが働くことで、「回心」と同様のやり方で上の二重性を処理していることがわかるだろう。

このように、自己が自己について語るという構造を抱える自己の語りは、非一貫性や真偽の未決定性を構造的に抱え込んでおり、それは「脱パラドクス化」されなければならない。しばしば自分について語るときの難しさは、こうした二重性の処理の困難に所以している。


■ナラティブ・アプローチからマーケティング・リサーチへ


「購買行動」「ライフヒストリー」「使用実態」…リサーチにおいて、対象者が対象者自身について語るという形式(前述の表でいえば【A】の形式)は多く実践されている。とりわけ、連続性とある程度の長さをもった語りを創出する各種インタビューやMROCなどの手法において、この「ナラティブ/物語」の発想は新しい視点を与えてくれるように思う。

事実、周りを見渡してみると「ナラティブ/物語/ストーリー」の概念は、マーケティング界隈にも徐々に侵食してきている。人材研修や企業DNAの継承における「ストーリー・テリング」の重視や(加藤雅則 2009)、大塚英志の「物語消費論」(2001)なども、この文脈とは異なるコンテクストから、マーケティング活動の「物語」性に着目するものである。

そしておそらく、ナラティブ・アプローチの諸視点を取り入れることによるマーケティング(リサーチ)への効能は次のようなところだ。


●ストーリー・マーケティングとの親和性

「商品・ブランドに物語性を」というのは、マーケティングの一つの定番的戦略だ。BtoCの消費財にとどまらず、前述のように経営組織論における「ストーリー」の重要性も近年見直されているところであり、銀行や大手メーカーなどで実際に研修などに援用されている(加藤2009)。

ナラティブ・アプローチの考え方は、こうした実態と親和性が高い。消費者が購買に至る行動を、ストーリーとして把握し、物語として理解することで、そこから物語性をもったマーケティングアクションにスムーズに移行できる可能性は高くなるだろう。そうした手法が確立すれば、リサーチャーがやるべきは、単なるデータの羅列の提供ではなく、そこから何らかのストーリーを紡ぐことへと変化していくはずだ。


●「真実」の物語から、真実の「物語」へ


客観性、代表性、再現性に拘泥してきた科学的リサーチの分野にとっては、これが最も大きい効能だろう。従来型のリサーチにおいて、対象者の語りの中の「矛盾」は調査として「是正」するべきポイントでしかなく、その矛盾をリソースにするというアイデアは看過されてきた。

しかし、議論してきたとおり、対象者の語り、回答を「ナラティブ」として見つめなおした時、注目するべきはその物語の「真実性」ではない。対象者の自身についての語りは、語られる他者(リサーチャー)という介在を経ながら、対象者自身によって編集を施され、並べ直され、どんな物語も常に「語り得なさ」を内包して提出される。

それはもちろん伝統科学な意味での「真実」ではないが、ナラティブ・アプローチのそもそもの前提は、「真実の/ありのままの物語」を想定しないところにある。むしろそこでの着目点は、対象者の語るストーリーの破れであったり、矛盾点であったり、それを施してまで隠したかった物語全体の構造へと移っていく。

これまでのリサーチが捨て去っていた対象者の語りの「矛盾」「曖昧さ」「辻褄の合わなさ」は、その語りを〈物語〉として捉え返すとき、物語全体の構造を眺めるときの大きなリソースとして活用しうる可能性をもっている。むしろ、パラドクスを隠し持つ自己物語の性格を思えば、そうした矛盾のなかにこそ物語の「真実」はある。もしかすると、我々はこれまで調査で生まれるこうした宝の山を、みすみす廃棄物として処理してきてしまったのかもしれない。

まったく思いつきの域をでない「効能」ではあったが、隣接分野からのこうした知見の中にまだ見ぬマーケティング世界の「オルタナティブ・ストーリー」が潜んでいる願いを託しつつ、今回の社会学のすゝめとしたい。


【参照文献】
片桐雅隆(2000)『自己と「語り」の社会学』 世界思想社
浅野智彦(2001)『自己への物語論的接近』 勁草書房
加藤雅則(2009)「組織経営におけるナラティヴ・アプローチ」 野口裕二編『ナラティヴ・アプローチ』所収。勁草書房
大塚英志(1989)『『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』新曜社
マイケル・ホワイト、ディヴィッド・エプストン(1992)『物語としての家族』金剛出版
野口裕二編(2009)『ナラティヴ・アプローチ』勁草書房

  
 
2014/02/07
タグ:小林祐児 社会学
category:社会学のすゝめ