株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児
前回、複雑な現代社会、という物言いについて、「社会とはなにか」という問いを一旦棚置きする形で、そこで言われる「複雑さ」について考えてみた。見ようと思えばいくらでも複雑に物事を観察することのできる、複雑性が「底のぬけた」状態である現代では、複雑性とは、ある対象がもつ属性ではなく、対象を観察するために用いられうる様々な「形式」のうちの一つだ、というようなことを述べた。
今回は、この「複雑性」から遡る形で、社会とはなにか、というより大きな問いに移っていきたい。
そこで、その社会を「システム」として見るという現代社会学における最もハードコアな理論を構築した、ドイツ社会学の大家ニクラス・ルーマン(1927-1998)の理論を紹介したい。
軽々しく紹介するなどと言ったが、ルーマンの理論は幾多の社会学理論の中でも圧倒的な壮大さをもつ理論であり、膨大な含意と背景の文脈をもっている。
このエントリを単なる社会学入門ではなく社会学の「すゝめ」にするためには、広大なルーマン理論から一般的にも意義がありそうなエッセンスを抽出するのがいいように思う。ここでは、ルーマンが考えたことの中から、私たちがふだん「社会」なるものについて直感的に考えていることから、より「遠い」ところにありそうなものをチョイスしてみよう。
以下は、この2つの命題について、ルーマンの社会への眼差しの「非常識さ」のようなものを少しでも感じていただければと思う。
■1.社会は「コミュニケーション」から成る___________________
われわれは普通、社会というものを考える時、それを「人」の集まりだと思っている。もしくは、「日本」や「東京」のように人が集まっている空間的ひろがりのことを指していると考えている。しかし、そう考えなかったのがこのルーマンという人である。ルーマンによれば、社会は人の集まりでもなく、人が生活する空間の広がりでもなく、「コミュニケーション」から構成されている。
しかもそれは、「人」が行うコミュニケーションの集まりという意味でもない。それでは結局「人」から構成されていることになってしまう。ルーマンはその道を選ばず、社会を分析する最小単位として「コミュニケーション」に照準したのだ。
ではここで言われるところのコミュニケーションとはなにか。ルーマン理論におけるコミュニケーション概念は非常に独特なことで知られている。その定式化は、ひとまず次のようにまとめることができる。
このままではまるで意味がわからないので、すこし解体したのちに、例をだして説明してみよう。
まず、〈情報Information〉とは、「何が」伝えられるかの水準の話だと考えていい。何が情報とされるかは、常に何が情報とされないか、と対になるのであり、そこにはコミュニケーションの送り手、例えば発話者によって情報内容が「選ばれる」。これはわかりやすい選択性だろう。
次に、〈伝達Mitteilung〉とは、いわばHOWの部分、そうした情報が「どのように伝えられるか」という水準である。
そして三つ目の〈理解Verstehen〉になるとは、もう少し日常用語から離れた言葉遣いになり、あるコミュニケーションの中で上の〈情報〉と〈伝達〉の間に差異が見出されることを示している。つまり、接触した情報が単なる情報ではなく、「伝達されている情報」であることを感知し、そこに差異を見いだすこと、という水準になる。
次のような嫁と姑の会話を想定してみよう。
姑が、久方ぶりに夫婦の家を訪ねてきた。普段から嫁のことを好いていない姑は、リビングの窓枠を指でスッーと触りつつ、緊張気味の嫁に向かって「ほこりがたまっているわね」とつぶやく。なんとベタな昼メロ展開しか思いつかないのかと自分でも愕然とするが、このとき嫁と姑のコミュニケーションは上の定式にあてはめるとどうなっているだろうか。
姑がセリフを言い放つそのとき、嫁は「窓枠にほこりがたまっている」という〈情報〉水準の内容と同時に、イジワルな姑がその言葉を発することによって「あなたちゃんと掃除してるの?」「あたしの息子の世話をちゃんとしているの?」という〈伝達〉水準にある内容を伝えたかったのだ、ということを選択的に受け取る。
このコンスタティブ(事実確認的)な次元での〈情報〉と、パフォーマティブ(行為遂行的)な次元での〈伝達〉に差異を見いだしつつ、次のコミュニケーションのために把握することを、ここでは〈理解〉と呼んでいる。
ルーマンよりも前、ほとんどの社会学理論や情報・メディアコミュニケーション論が前提していたのは、「コミュニケーションの伝達モデル」だった。それは、送り手/受け手という両極にある主体を前提としながら、「送り手の〈意図〉を、受け手が受け取ること」、この情報の移動のプロセスがコミュニケーションの核心に位置していた。だが、ルーマンのコミュニケーション概念では、この「移動」のコノテーションは取り除かれ、「送り手の意図」の位置は後退する。
上の例で言えば、受け手としての嫁の理解がなぜ「選択的」と言えるかというと、嫁はその姑の言葉から、単純に「あの窓はほこりがたまりやすい」という姑の親切心として〈情報〉〈伝達〉の違いを看取することも「できる」からだ。
ルーマンのコミュニケーション観を前提にすると、姑が〈本当は〉どのような「意図」を持っているかも、嫁の理解を「決定」するものではない。ここでは情報を情報として受け取るかどうかも、〈理解〉の側の選択に依存している。
ただ、このルーマンの視点は、単に〈受け手の理解〉にコミュニケーションの重点を移したものというわけでもない。「受け手側の理解」も伝達と情報内容の条件付けに従ってしか行われない。この三つの選択性はコミュニケーションの中で互いに条件付けながらも決定関係になく、コミュニケーションはあくまでこれらの〈選択性の総合〉として把握される。
上の図をみてもわかるように、ルーマンのコミュニケーション理論にといては、送り手や受け手といった「主体」が後景へと退いている。このことが、「社会」を人の集まりとして見なかったルーマン理論のポイントである。ルーマン理論においては、「送り手」や「受け手」といったコミュニケーションにおける選択性の帰属先も、後続するコミュニケーションによって設定されるものとして捉え返される。もう少し説明しておこう。
例えばある地方自治体(仮にN市)が条例を制定したとき、その条例を制定したのは誰か、という問題について考えてみる。それは、「N市議会」でもあれば「N市の市長」でもありえるし、さらに「議員を選出した市民」でも「市民としての私」でもありさえする。これらのどれもが条例の制定を可能にした行為者として設定される可能性を持っているし、それは常に「条例設定について」の継続するコミュニケーションの中で設定されていく。
このように、選択性の帰属の選び出しは恣意的にその終着点としての「主体」を設定でき、その帰責点の「確定」は、継続するコミュニケーション「のみ」によって行われるゆえに、「主体」そのものの姿は様々な可能性に開かれている。
この種の可能性の存在は、コミュニケーションのどの局面においても、そこで発現するどんな選択性においても、その選択性が「自己」の選択であるか、「他者」の選択であるか、それとも「われわれ」か、「彼ら」か、など無数の帰属先から選択されること/もしくはされないことを要請する。
このコミュニケーション概念をもつルーマン社会理論において、社会は人の集まりではない理由がお分かりいただけただろうか。この直感に反する社会への眼差しから、ルーマンは「人はコミュニケートしない。コミュニケーションだけがコミュニケートしうるのだ」というさらに非常識な命題さえ述べている(そして予想通り、議論は紛糾した)。
そしてこのコミュニケーションがコミュニケーションを生んでいく、という視点は、ルーマン理論のもう一つの基礎概念、「システム」を考える段に入るための手がかりとなる。
■2.社会は〈複雑性の縮減〉を行う「システム」である_________________
ルーマンにとって、社会とは個人の総和ではなく(社会≠Σ個人的主体)、さらに行為の総和でもなく(社会≠Σ行為)、コミュニケーションの総体(社会=Σコミュニケーション)として定義さたる。
そして、コミュニケーションの総体としての社会は、前のコミュニケーションに後のコミュニケーションを接続させていく形で作動していく。その際に立ち現れてくるのが、前回にもとりあげた「複雑性」の問題である。
前回述べたとおり、現在の「複雑性」は、底のぬけた無限さを持つものとして現れる。この複雑性は、コミュニケーションの連鎖として社会を捉えようとするルーマン理論へ極めて重要な理論基盤をあたえている。
いざコミュニケーションしようとするとき(社会が現れようとするとき)、世界はあまりに多くの複雑さを持って現れる。ここでコミュニケーションが直面する複雑性とは、あらゆる出来事や状態、そしてそれらに囲まれながら継続するコミュニケーションの選択性の「接続可能性の数」の多さと言い換えてもいいだろう。
無数の選択肢(自由度)が反転して、実現可能性の低減を招いてしまうこと。それは、DVDでも借りようとふらっとレンタルショップに入り、棚に並ぶ数万のアイテムを目の前にした時、人は往々にしてDVDを選ぶことができない、という事態を思い浮かべてみてもいいかもしれない。ここには「自由」と「不自由」といった問題を考えるときに忘れてならない観点があるが、それはコミュニケーションの総体としての「社会」なるものを考えるときにもヒントを与えてくれる。
コミュニケーションがコミュニケーションを継続させていくためには、この「底の抜けた複雑性」をどうにかして処理しなければならない。ルーマンは社会を、コミュニケーションの複雑性を「縮減」させながら作動する「システム」として定義したのだ。(※1)
社会システムは、この複雑な世界を「より複雑で無い」ものとしてコミュニケーション可能なものにするように作動する。この世界の中の「システム」と、システム以外のものをルーマンは〈環境〉と呼びながら、その様々な形で現れるシステムの形態を分析している。
近代社会においては、社会システムはそれぞれ機能分化したシステムとして成立している。「経済」「法」「芸術」「科学」「政治」「マス・メディア」といった分化したシステムは、それぞれ世界の複雑性を縮減するための独特の作動の二元ルールのようなもの、「コード」をもっている。ここでは、例えとしてその一つ、「法システム」について考えることで、「システム」の作動を説明してみよう。法システムの行うコミュニケーションの作動のコードは、「合法である/違法である」というコードである。
例えば、裁判官は、出廷した容疑者の行為について、「合法である/違法である」という区別をもってコミュニケーションを行う。法廷の場において、容疑者の行為について「道徳的か/非道徳的か」「意図的か/非意図的か」を議論し続けるだけでは、裁判という制度は破綻してしまう。
容疑者の行為が出来事として真実だったのか、意図的だったのか、動機はなんだったのか、もろもろの情報を参照しつつも、法システムは最終的に「違法か/合法か」というコードに乗っ取ることによって、この多くの複雑性を縮減し、判決を下すというコミュニケーションを可能にし、その後の刑罰という継続する社会的営為が接続していくことができる。
上のような機能システムの働きがなければ、社会的コミュニケーションは法以前の状態となり、きわめて無秩序な事態に陥る=コミュニケーションは全体として接続していくことができないだろう。
このようにして社会システムは、「違法/合法」という二分化したコードを用いてこの複雑な世界を、より複雑でない世界としてコミュニケーション可能なものにする。
他にも、経済システムは、「支払う/支払わない」 科学システムは「真理/非真理」を、政治システム「権力を持つ/持たない」をコードとして用いながらそれぞれ独自の複雑性の縮減を行っている。
システム理論の文脈から、自己言及し自己創発する「オートポイエーシス・システムとしての社会」というルーマン理論の最大の理論的特徴があるのだが、それについてはルーマン自身の著作か、すでにある多くの解説的著作を参照してほしい。
ここで一つだけ付言したいのは、システムが創発しようとする(コミュニケーションが接続していく)世界は、それ自体として「複雑」であるということではない、ということだ。複雑性は、コミュニケーションしようとする社会システムの作動と「同時に」現れる。あまりよい例は無いが上の例を引きずれば、「DVDを借りよう」としなれば、そもそもDVDの棚は選択肢(可能性)として現れないのと似ている。
社会というシステムは、どうにも処理できそうにない世界の複雑性について、実現可能な道を探るように複雑性を縮減し、コミュニケーションを継続させていく。そのコミュニケーションの継続こそが「システム」なのであり、その「縮減の仕方」を具体的に分析するのが社会学の目的としてあるのだろう
■社会が「ある」という「ありえなさ」_______________________
さて、ルーマンの「突拍子も無さ」のようなものは感じていただけただろうか。
この限られた紙幅で触れられたのはあくまで導入のさらに入り口にしかすぎないが、読者の方にはすでにこの理論の「コスパの悪さ」のようなものが感じられているかもしれない。実際、社会システム理論の理論的精査はルーマンの癖のある文体と相まって、ときに袋小路のような隘路に読み手を招いていてしまうことも多く、社会学理論の中でも異端的な位置におかれているのが現状である。
そしておそらく、このルーマンの「社会システム理論」とその複雑性の議論はマーケティング実務にとってそのまま「役に立つ」ものではないだろう。
しかし、社会システム理論の基本的な考えを学ぶことによって門外漢が得るものが無いわけではない。実際に、筆者にとってルーマンの理論は、役に立つといった表層的な次元よりもっと手前にある、社会生活をみる際の「心構え」のようなものを提供してくれている。
ルーマン理論からきわめて分の悪い含意をひきだしてみるとするとそれは、「社会の〈ありそうもなさ〉への拓かれ」だと感じている。コミュニケーションの複雑性―継続するコミュニケーションの接続先の場合の数―はそのままでは接続すら不可能な、可能性の束としてある。
朝、会社に行き、決まった自席に座り、夜までパソコンを叩いて仕事をする。この毎日の当たり前の行為ひとつとっても、圧倒的に他の可能性に囲まれていたはずだ。職場に来ずに家で寝ていても良かったはずだし、オフィスでいきなり縄跳びをはじめても良かったはずだし、パソコンはちゃぶ台の代わりにしても良かった。
しかし、それらの可能性は、行ってしまえば何らかの制裁(サンクション)や経済的不利益があるだろう、と予期させる〈社会〉の機制が存在している(逆に「そうしたい」と思わすのも、何らかのポジティブな予期を生じさせるような社会の働きだ)。
このようなコミュニケーションが積み重なって、「法人」なる抽象的な概念を前提としつつ、資本経済全体が多様な活動を行うことなど、ほとんど奇跡のように思えてこないだろうか。これらは誰からも強制されてなどいないし、運命づけられていもしない。「お金を稼がなければならないのだから、実質的な強制だ」という人もいるかもしれないが、前に述べたとおり、貨幣を使うことも一つの不合理な跳躍なのだから、それは因果説明にはならない。
今回紹介した、ルーマン社会システム理論を支えている基本視座は、社会(コミュニケーション)において起こることが実は根源的な不確定性を含んでいること、そして、その不確定性に囲まれた世界で、本来ならば生起確率の低いことが「実際に起こっている」ということはどういうことか見てみましょう、という視線である。それは、ルーマン自身の表現を借りれば、「ありそうなもののありそうもなさdie Unwahrsheinlichkeit der Wahrsheinlihen」に気がつくことだ。
現にある社会の日常を、コミュニケーションの正常さを、そのまま自明性として片付けないこの態度が、ルーマン社会理論では常に徹底されており、そしてそれが故にルーマンの理論は「難しい」。しかしその難しさは日常から遠く離れた「常識外れ」をわれわれが理解することがいかに困難か、ということの現れでもあるし、その態度が、社会を分析的な視線で眺める全ての眼差しの基礎と共鳴することは、もはや言うまでもないように思う。
社会において縮減された複雑性を、分析的な視点から、もう一度可能性の束にもどして考える事。これは「複雑性を再構成すること」、と言いかえられるかもしれない(もしくはルーマンも言っていたかもしれない)。それは、「複雑な社会」という紋切り型からは発想し得なかった、〈複雑な社会〉への創造的な対峙の仕方のように思う。
【注】
※1 「システム」というと、だいたい多くは「人工的」「管理」「官僚的」「融通の効かない」といった含意をもたされていることが多いが、ここでは一旦忘れて欲しい。
一般的な学問における「システム」をめぐる思考の歴史はフォン・ベルタランフィ以降すでにかなりの蓄積があるが、ここではごく簡単に「システム」ということを考えるために、例えば、自動車のエンジンと人間(猿でもなんでもいいのだが)との違いを考えてみよう。
自動車のエンジンは、自動車そのものが故障してしまっても、部品としては存在し続けることができるし、交換することができる。人間の臓器は、その人が例えば心停止などで死亡状態に陥ってしまえば、時間差はあるものの、ほぼ同時に活動を停止し、死滅する。個体としての動物は、臓器などの身体的器官の単なる集まりではなく、それ以上の全体性を有している。これが初期の「システム理論」的な考え方でる。
システム論者たちがその初期から共有していたこうした「部分の総和以上のものとしての全体」という考え方は、社会学においても、ハーバート・スペンサーやエミール・デュルケームら社会学の理論の中にもプリミティブな形で着想されていた。タルコット・パーソンズが統一的な社会の理論として「社会システム理論」を提唱した。
※2 ルーマンによる諸社会システムの分析の内、「経済システム」「組織システム」といった分野はひょっとすると役に立つのかもしれないが、筆者にそれを論じる力量は残念ながら無い。
【参照文献】
ニクラス・ルーマン 『社会システム理論』 恒星社厚生閣 他
馬場康雄『ルーマンの社会理論』 勁草書房
長岡克行『ルーマン/社会ロの理論の革命』 勁草書房
ゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ『ルーマン 社会システム理論』 新泉社