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社会学のすゝめ 第39回「心とは一体何のことか−「心の哲学」入門一歩手前」

2015/04/22

タグ:心脳同一説 心の哲学 社会学 小林祐児

株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児

マーケティング・リサーチにおいて、ほとんど核心的な位置にあるトピックの1つとして人の「心」の問題がある。消費者の、生活者の、意識と認識と価値の問題は全て「心」と呼ばれる範囲に含まれ、われわれは日々それをマーケティングに活かせる形で発見・解明しようとしている。

しかし、改めて考えてみると、「心」なるものは目に見ることも触れることもできないように思われる。しかし、にも関わらずほとんどの人が「人には心がある」という確信を抱きながら日々を暮らしている。では、この 「心がある」ということは、いったいどういうことなのだろうか。

「潜在/顕在意識」「本音」「インサイト」といった言葉で言い換えられることが多いが、わたしたちマーケティング・リサーチャーも他の多くの人々と同じく、「心」というものがある、ということを常識的な知の範囲で前提にして議論を行なっている。こうした問いに対して即答できるリサーチャーはおそらくほとんどいないだろうし、おそらくは「考えたことが無い」という方が大半だろう。

社会学ではなく現代哲学の領域になるが、「心の哲学」という分野がある。
心理学ないし精神分析を主な参照点とし続けてきたマーケティング・リサーチの世界ではほぼ無視されてきた分野ではあるが、現代哲学の重要イシューの1つとして、議論の厚い蓄積がある分野だ。

そこで、今回のエントリでは、この「心の哲学」の入り口を参照することで、「心をどのように捉えるべきか」、その立場の多様性だけでも感じ取っていただければと思う。



■心をめぐる3つの主張――「物的一元論」「心的一元論」「心物二元論」

まず、「心」という存在にたいする原理的な考え方を大きくわけると、「物的一元論」 「心的一元論」 「心物二元論」の3つの立場があげられる。

【心的一元論】は、心を含めた世界全体を「非物理的な心的存在」のみによって構成されている」とする立場だ。

ここでは、物理的に存在しているようにみえる事物も、すべて非物理的な存在である「心」によって作られたものとみなされる。歴史的には、哲学上の「唯心論」と呼ばれる立場がこれに近いが、一読してわかるようにこれはなかなか飛んだ考え方だ。

この主張は、手で触れ目で見ることのできる物に囲まれて生きている私たちの一般的常識に真っ向から反する上に、これまでのほとんどの自然科学の業績を根底から覆す必要がある。そのため、この主張を唱える論者は今やほとんどおらず、ここでも深く取り上げることはしない。

【心物二元論】は、世界は、「物理的な存在」と、「非物理的な心」の二種類の存在によって構成される、とする立場である。

心と物をそれぞれ独立して存在する性質の違うものだと考えつつ、人の「身体」は物理的な法則にしたがう物的な存在として、心は空間の中に存在せず物理的な法則にしたがわないものとみなす。歴史的には、この立場の代表的論者としてかの有名なルネ・デカルトがあげられる。

われわれは普段、机の上においた鉛筆や消しゴムとは別のものとして「心」を捉えている。心がパソコンのように物理的に存在し、手で直接触れられるような存在だとはみなしてはいない。こうした日常的な感覚の元では、これは少なくとも心的一元論よりは納得性の高い主張に思える。


【物的一元論】は、心を含めた世界全体を「物理的な存在のみによって構成されている」とする。いわゆる哲学史的に「唯物論」と呼ばれてきた立場と重なる。

これまでの人類の文明史を牽引してきた自然科学的な世界観のもとから見ると、これは強い説得力をもつように思える議論だ。特にわかりやすいのは、「脳」の物理的な作動と、「心」の活動を同じものとしてみなす心脳同一説mind-body identity theoryが代表的だ。脳神経の状態こそが、「心」の作動であると、心的なものの存在を物理的なものの存在に還元してとらえようとする。

マーケティング・リサーチで行われる脳科学を活用したいわゆる「ニューロマーケティング」は、消費者の脳のさまざまな活動状況を測定することで、「心」を測定しようとするものだ。そして、そこで前提されているのも、この物的一元論ないし心脳同一説に近い立場のように思われる。

その延長線上には、「脳の活動をすべて理解すれば、人の「心」なるものの全貌も(いつか)解明されるだろう」、という願望にも似た期待が確認できる。かつて養老孟司が提唱した「唯脳論」の議論もこの考え方がベースにあるものと思われる。



さて、これらの全く異なるように見える主張の一体どれが正しいのか。
それはじゃんけんのように簡単に答えがでるものではない。心のどんな特徴(と考えられるイシュー)に注視するかによって、それぞれの立場の特異性が見えてくるものであり、実は、その議論の深みこそが「心の哲学」の読みどころだ。

ここでは、そうした議論の一端を紹介することで、「物的一元論」「心的一元論」「心物二元論」はそれぞれ、心のどの特徴に焦点を当てるかによって良い点と欠点があり、そこからまた様々に異なる派生的な主張がでてくるのが分かるだろう。


■心の因果について

例えば、心の哲学でも重要なイシューの1つである「心の因果性」に注目してみよう。

「水が飲みたい」という心の欲求が、「水を飲む」という身体運動の原因になる、とする。これは直感的にはスッと頭に馴染んでくる考え方のように見えるし、「心」なるものを理解しようとする切り口として有用なものに思える。

だが、上の立場のうちの1つ、「心物二元論」を前提としたとき、この因果の問題は大変な課題を呼び寄せる。

非物理的な存在である「心」が、水を飲むという物理的な現象である身体運動の原因になる、ということはどういうことか。それはどのように可能になるのだろうか。考えてみると、これは「念力でコップを動かす」と同じくらいのおかしなもののように思えてくる。

逆もまた然りだ。稲妻の光を知覚した視神経の運動から、「稲妻が光った」という心の認識が現れてくる、つまり「物理的存在→非物理的存在」という因果の流れはどのように生じるのか。これも上の念力を反転させただけの不可思議に満ちている。

哲学者ギルバート・ライルはその古典的名著『心の概念』において、このデカルトに由来するタイプの心物二元論を概念上の混乱から導かれた誤り、「カテゴリー・ミステイク」だと看破した。
日常的な感覚からは支持できそうであった心物二元論にも、このように見ていくと大きな壁が立ちはだかっている。


逆に、物的一元論、特に心脳同一説をとる場合には、こうした心の因果の問題はあまり問題にならないように見える。

心脳同一説を「心の状態Aは、脳の活動状態Bと同一である」とする立場と乱暴にいいかえてみると、先ほどのような「物から心へ」、「心から物へ」という因果は、心と脳の一体的な因果として解決できるからだ。この限りでは、ニューロマーケティングの先ほどのような想定は前向きに検討できるようなもののように思える。


■心の命題的態度と、脳の非構文論的構造について

だが、心脳同一説にもいくつか大きな問題が提議されている。ここではその中の1つ、脳の非構文論的構造という問題を例にあげてみよう。すこし話が込み入ってくるものの、肝要なトピックなので紹介したい。

感情、思念、価値、認識など、「心」の内容はさまざまに形を変えて呼ばれているが、その中でも、特に「言語」に類して捉えることができる心の内容があるように思われる。それは、「信念」や「欲求」といった「~ということ」といい表すことのできる心の状態だ。

イギリスの哲学者バートランド・ラッセルはそういったタイプの心の状態を「命題的態度(propositional attitude)」と呼んだ。たとえば、「氷は冷たい」という信念は、「氷は冷たいということ」という命題に対して、「信じる」という態度をとる心の状態(信念)として、命題的態度としてみなされる。「水を飲みたい」という欲求は、「水を飲むこと」ということについて「欲する」という心の状態として記述できる。

そして、この言語に類される命題的態度は、言語と同様の「構文論的構造」という特徴をもっていることが知られている。

いま、例えば「氷が冷たい」という文をあげよう。この文は、「氷」・「が」・「冷たい」といったそれぞれの単語が、日本語の文法規則にしたがって組み合わされて「氷が冷たい」という文を構成している。

構文論的な構造とは、このようにさまざまな語が、文法のような規則にしたがって並び組まれ1つの文を構成する、という言語構造のありかたのことだ。そしてその時、各語それぞれについては、いろいろな文で共通に使われる「文脈独立性」を持つ、という特徴がある。
たとえば、「氷が冷たい」と「氷が溶ける」の2つの文における「氷」は、その他の語との組み合わせこそ違うにも関わらず、同じ氷を表すものとして、文脈に依存せずに組み合わせることができる。「冷たい」の語についても、「空気が冷たい」という文に使われるときと「氷が冷たい」の文に使われるときで、同じ性質を表すものとして共通に用いられる。

そして、心の状態が命題的態度をとるのであれば、心脳同一説を支持するためには、脳の構造も上のような構文論的な構造を持っていなければならないことになる。心の状態を脳の状態と同一とみなす心脳同一説の立場からは、構文論的構造をもつ命題的態度――たとえば「氷は冷たい」といった信念――は、脳の物理的状態へと移し替えられる必要があるからだ。


しかし、最新の神経科学のニューロンの研究(とりわけコネクショニズムと呼ばれる立場に)によって、脳はこの構文論的構造をもっていないという事実が示されてきている。簡単に説明しよう。

人間の脳が、神経細胞、いわゆる「ニューロン」のネットワークから構成されていることはすでによく知られている。
そのニューロンはその間にある「シナプス」と呼ばれる部位によって他のニューロンと結合しており、刺激を受けた各ニューロンの興奮(活動)は、そのシナプスを通じて他のニューロンに伝えられていく。
そして、そのシナプスが「ニューロンの興奮をどのくらい他のニューロンに伝えやすいか(重み)」の伝わりやすさの程度によってニューロン群(まとまり)の興奮パターンが決まってくる。


問題は、このシナプスによってつながれたニューロンのネットワークは、複数の物事をそれぞれ全体に分散し、重ねあわせるように処理しているということだ。

ニューロンの刺激ネットワークは、「氷の語が表す刺激は、この部分で処理する」のように担当する部位を決めているわけではなく、それらをシナプス全体の重みづけに分散させ、重なりあうように処理している。つまり、構文論的な構造にとって必要だった「文脈独立的な構成要素」、たとえば「氷」「冷たい」などの構成要素を、脳内のニューロンの部分部分に対応づけることはできないということだ。

こうした脳神経科学の発見は、脳の構文論的な構造を否定し、心の状態と脳状態が一体のものとなりえないことを示しており、これが正しいならば心脳同一説は支持できないことになってしまう。ニューロマーケティングが心脳同一説にもとづいて脳の活動を測定している一方で、脳神経科学の進化は、その主張のベースとみなせる心脳同一説を否定するような発見を塗り重ねてしまっているのだ。


■行動主義・機能主義・消去主義・クオリア

心の哲学は、こうしたイシューに応じた様々な展開を見せ、心というものの輪郭をつかもうとする。あるイシューについて壁にぶつかったときに、別の議論・立場を主張する論者が枝葉のように議論を伸ばしていく、というような発展の仕方をしている。

例えば、先ほどもあげた『心の概念』でライルが提唱したのは、「心の傾向性」という概念である。心とは行動を引き起こす「傾向」のことだとみなし、そこから「行動主義」という立場が現れた。※ちなみに、心の哲学で言われる行動主義は、心理学におけるスキナーやワトソンらの行動主義とはまた別のものなので注意されたい。

また、心の因果の問題で暗礁に乗り上げた感のあるデカルト的な心物二元論も修正される。いまでは、「心」と「物」を2つの独立した存在として捉えるのではなく、ある同一の客体について物理的な性質と非物理的な性質の2つの性質が重なり合うことを想定する「性質二元論」という立場が優勢になっている。

茂木健一郎によって一気に人口に膾炙した感のある「クオリア」も、この心の哲学の中心的トピックの1つであるし、他にも「消去主義」「解釈主義」「機能主義」「志向性」といったきわめて重要な主張・キーワードも多くあるが、ここで触れる紙幅の余裕はない。

「入門一歩手前」程度の紹介となったが、心の哲学は、われわれの日頃の課題を根本から議論している極めて魅力的な分野であり、得られるものも多いように感じられるものの、リサーチの現場で話題になることは皆無に等しい。わたしたちが常に扱う「心」の問題の核心について、マーケティング・リサーチャーとして一度考えを巡らせてみてもよいのではないだろうか。


■参照文献

金杉武司『心の哲学入門』 勁草書房
ジョン・R・サール『MIND 心の哲学』 朝日出版社
ギルバート・ライル『心の概念』 みすず書房
青山拓央『分析哲学講義』  筑摩書房
など