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社会学のすゝめ 第40回「マーケティングは「科学」たるか(1)」

2015/05/28

タグ:社会学 マーケティングは科学なのか 小林祐児

株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児

しばしばマーケティング界隈で俎上に載せられるトピックとして、「マーケティングは科学なのか」という問いがある。
そうした場では、「諸科学からの知見を流用してきたがゆえに科学だ」とされることも、「流用でしかないがために科学ではない」とされることもある。また、「マーケティングは営利目的であるために科学ではない」という声もあがる。

では、マーケティング・リサーチではどうだろうか。また、流行のビックデータ分析は「科学」だろうか。これらは広義のマーケティングの下位分野だが、統計的手法を用いることの多いこれらの分野の方が、もうすこし科学に近いところにあるのでは、という気もしてくる。

しかし、人類の科学史を振り返ればすぐわかることだが、科学の業績には統計的手法を使わないものが数多く含まれており、統計的手法を用いているから科学に近い、とするこの気分はかなり怪しい。

ここで少し目先をかえよう。マーケティングが「科学であるか」は意見が分かれるとしても、マーケティングが科学で「あるべきか」という主張については、賛同者の数がずっと増えるだろう。そこで広く共有されているのは、「科学とは、世界の物事について、客観的な真実に近づいていく営みである」、という漠然とした前提だと思われる。

仮説にもとづいてデータを集め、理論・法則を合理的に積み重ねていくことによって、真実という大きな山の頂上へと少しずつ到達する。「科学であるか」は意見が分かれるとしても、「科学であるべき」という主張の裏には、こうした前進的科学観が透けて見えるようだし、より一般的な科学のイメージもこのあたりに落ち着くような気がしている。

ただ、現状、マーケティングが・そしてマーケティング・リサーチが「科学」なのかどうかの議論は曖昧さを多分に含んでおり、「科学」というメタファーを振り回す以上の議論はほとんどなされていない。結局、「科学」という領域への合意的見解がないために、マーケティングが科学なのかという問いは、「科学とは何なのか」という問いへと容易に反転していってしまう。

今回は、マーケティング従事者はおろか科学者たちの間でも合意のない「科学」という営為について改めて考えてみることで、「私たちは一体何をやっているのか」という足元を今一度見つめなおしてみたい。


■科学の考え方の中心にあるもの――帰納と演繹

科学というものを考えてみた時、まず大きな特徴の1つに、その考え方の手続きが厳密である、ということが言えそうだ。
例えば、「今日は犬がよく吠えるな。明日は雪なんじゃない?」といった曖昧な考え方は、科学的な考え方からは程遠いように感じる。少なくとも、「今日犬が吠えること」と「明日の降雪」に何らかの繋がりを考えてあげなければいけなそうだ。

そこでまずは、この「科学的な考え方」というものの中身を少し考えてみよう。それは、マーケティング・リサーチに従事する私たちも日々行なっている「推論」のやり方だ。

推論には、大きく分けて演繹deductionと帰納inductionとアブダクションabductionの3つがあることはご存知の方も多いだろう。例えば、以下の様な推論のやり方がある。

日本人の髪は黒い
タカシは日本人である
よって、タカシの髪は黒い

これは、一般的・普遍的な前提から、より小さな個別的推論を導き出している、演繹的推論と呼ばれる推論の形だ。
そして、それとは別の次のような推論もある。

日本人であるユウジの髪は黒い
日本人であるタカシの髪も黒い
よって、日本人の髪は黒い

演繹とは逆に、個別的な事例から一般的な結論を導いているこのような推論を帰納的推論(枚挙的推論)と呼ぶ。

この演繹と帰納については、リサーチの教科書でもよく説明されるため詳述は必要ないだろう、推論の形には、他にもアブダクションabduction(仮説形成)やアナロジーanalogy(類推)などのタイプもあり、これらを広義の帰納的推論の中にいれることもあるが、ここでは帰納と演繹の違いに的を絞ろう。

前者の【演繹的推論】は、「日本人の髪は黒い」「タカシは日本人である」という2つの前提が真でさえあれば、そこから導かれる結論も必ず真になる。この性質を「真理保存的」という。演繹的推論は、前提さえ間違っていなければ結論も間違わないが、前提の内容にすでに結論も含まれているので、推論としてやっていることとは、その情報を引き出してくることのみとなる。

逆に、【帰納的推論】のほうは、前提となる2つの小さな事柄から、日本人の髪は黒いという大きくて新しい知識を追加している。この意味で演繹よりも発展的と言えそうだが、ユウジとタカシの髪が黒かったからといって日本人すべての髪が黒いかどうかはわからない。

髪の色を確かめた日本人がユウジとタカシだけでは推論として不安だ。3人目の健太、4人目の太郎も髪が黒いことを確かめたくなる。そして、確かめる日本人をどんどん増やしていき、10000人くらいの日本人の髪の色がすべて黒であったならば、「日本人の髪は黒い」という客観的な真実に限りなく近づいていくような気がする。

そして、これは科学が行なっている 仮説 → 検証 → 法則化 という手続きのベースになるようにも思える。この手続きを中心に、科学という営為を簡潔に言い表せないだろうか。


■帰納的推論の落とし穴−ヒュームの困難−

だがしかし、18世紀には、以前別のテーマでこのコラムにも登場したスコットランドの思想家デヴィッド・ヒュームが、この帰納的推論の原理的な難点を指摘している。ヒュームの指摘は、これら帰納的推論は【自然の斉一性uniformity of nature】という原理を不当に前提としている、というものだった。


David_Hume.jpg
(David Hume 1711-1776)

帰納的推論における【自然の斉一性】原理とは、「まだ確かめていない対象(ここではまだ見ていない日本人)も、重要な点ですでに確かめた対象(すでに見たユウジとタカシ)と類似している」という想定のことだ。

そして、これは厳密に証明することができない原理だ、とヒュームはみなした。世界の姿はそのように大まかに似ているようなものだけではない可能性が常にある。現に白いカラスや飛ぶ魚のように、それまでの常識からは驚くような発見は多くある。にわかに信じられないことは往々にして起こるではないか。この斉一性は、常に破られる可能性を排除することができないのだ。

このように言われると、多くの人は次のように考えるだろう。
「確かにそれはそうだ。しかし、そうした自然の斉一性は、確実とは言わないものの、これまで大まかには成り立ってきたではないか」、「10000人の日本人を確かめたのなら、次の10001人目の日本人が黒髪だと考えるのは合理的だろう」と。

だが、これらの説明はともにヒュームへの論証としてうまくいかない。帰納的推論を擁護しようとするこれらの「これまで○○だった、だから今後も○○だろう」というロジック自体が帰納的推論を用いてしまっており、自然の斉一性を前提としているからだ。つまり、これらの説明は、帰納的推論をうまくいく理由としてあげられるのが帰納的推論でしかない、という自己矛盾したロジックを抱えてしまっている。


■グッドマン「グルーのパラドクス」

ヒュームのこの指摘に加えてもう一つ、科学的考え方のベースである「帰納的推論」の地位を脅かす議論がある。アメリカのネルソン・グッドマンによって提示された「グルーのパラドックスgrue paradox」という問題だ。

「grue」とは聞き慣れない言葉だと思うが、これは英語の「blue」と「green」を組み合わせたグッドマンの造語である。

仮に、今日を5月31日だとして、あなたが今、発掘されてくるエメラルドの色を調べたいものとする。そして、5月31日までは「ブルー」の色だが、6月1日からは「グルー」の色になるような性質の色をグルーgrueと呼ぶことにしよう。

そして調査の結果、今日まで発掘された99個のエメラルドすべてが「ブルー」であった。ここから自然に帰納的推論をすると、「明日6月1日に発掘される100個目のエメラルドもブルーである」となる。しかし、上のグルーの性質上、この結果からは、「明日発掘されるエメラルドはグルーである」という帰納的推論も導き出せてしまう。

これは、一見すれば明らかに不自然だ。そもそもこのgrueという概念自体がインチキめいてみえる。
だが、ここでのポイントは、この「グルー」の概念はたしかにインチキのようにみえるが、6月1日になって都合のいいように変更された概念ではないことだ。これまで単にブルーだとされてきた99個のエメラルドも、ずっと「6月1日以降はグルーになるブルー=グルー」を指していた可能性があるのだ。つまり今日までの私たちは、エメラルドがブルーであることを確かめていたのではなく、「グルー」であることを確かめていた、といえるのである。

つまり、この不自然な想定から導出されるパラドクスは、「同じ前提から、帰納的推論によって導き出される推論が、1つの内容に収斂できない」ことを示している。上の例で噛み砕くと、エメラルドを何個確かめようとも、「この土地で発掘されるエメラルドがブルーである」という推論のみを導き出すことができない」ということだ。


このように、帰納的推論は科学的な考え方の中心でありながら、大きな難点をいくつか抱えてしまっている。しかもそれは、「真理に近づくことはできるが、最終的に確かめられない」という類のものではなく、「そもそもの推論の仕方が妥当ではない」ということを示す。これは、私たちの知っている科学の方法論としては頼りなさすぎるのではないか。科学をもう少し合理的に基礎付けることはできないだろうか。


■カール・ポパーの反証主義falsificationism

こうした帰納的推論の困難を前にして、科学から「帰納的推論を追い出す」というとんでもない案を提出した哲学者がいる。イギリスの哲学者カール・ポパーである。

ポパー.jpg
(Karl Raimund Popper 1902-1994)

ポパーは、帰納的推論からの検証や確証といった営為を科学から排除し、「演繹」だけを科学的思考の基礎に据えようとした。これはどういうことか。ポパーが代わりに中心に据えたのは、「反証(反証テスト)」という手続きである。

日本人の髪は黒い(仮説)
しかし、日本人である健太の髪は茶色い
よって「日本人の髪は黒い」は正しくない(仮説の放棄)

この仮説の放棄にいたる推論は、演繹的推論しか用いていない、つまり真理保存的な推論である。ポパーは、この演繹のみを用いて科学的方法論を定式化しようとした。ポパーは科学の目的を、検証によって仮説を確証していくことではなく、逆に仮説の「正しく無さ」を突き詰めていく「反証」の方へとひっくり返したのだった。

もし、検証の結果、健太も、そして次に太郎も髪が黒かったとしよう。反証主義によれば、それらの検証結果によって「日本人の髪は黒い」という仮説は真実らしさを高められたわけではなく、単に仮説として「強められたcorroborated」にすぎない。

強められた仮説は、「日本人の髪は黒い」という客観的な真実に近づいているわけでないと考えるのがポイントだ。そして、現在受け入れられているような科学理論も、それが客観的な確実性を持つからではなくて、単に「反証されていない仮説」であるにすぎない。



このように、科学を「世界の物事について、客観的な真実に近づいていく営み」としていた私たちの漠然とした常識は、帰納的推論への反駁、そしてその帰納的推論の困難を回避しようとする反証主義の議論を前にしてグラグラと揺らぎ始める。ポパーのような科学観では、客観的な真実に近づいていくことはおろか、新しい知識を予測的に増やしていくことすら、科学の前景から引きずり下ろされてしまうのだ。

このポパーの反証主義の提言は、衝撃的であったと同時に多くの批判にもさらされた。科学から新しい事実が予言できるようになる機能を捨て去ることの妥当性が問われ、また、実際の科学史の実態はこうではない、という指摘が成され、議論は続いている。


しかし、ポパーのこの反証主義は一方で、科学と「科学でないもの」、つまり科学のように見える(言われている)が、科学とはされないものとの違いを議論するための切り口として、新たな方向の議論の端緒となった。ポパー自身は、マルクス主義経済学やフロイトらの精神分析をいわゆる「疑似科学」として論難したのだが、創造科学やオカルト、新興宗教、UFOなど、疑似科学と呼ばれている分野は他にも多く存在する。そして、その科学と科学でないものの区別、いわゆる「線引き問題demarcation problem」は、今日でも科学を考える上での主要トピックだ。

そこで、次回のエントリーでは、こうした「科学ではないものが科学らしきもの=疑似科学」を考えることで、「科学であるもの」へと立ち戻っていく道筋をたどってみたい。マーケティングは「科学」なのか「疑似科学」なのか、その答えに少しでも近づくことはできるだろうか。