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社会学のすゝめ 第41回「マーケティングは(擬似)科学たるか(2)」

2015/06/25

タグ:小林祐児 マーケティングは科学か 社会学

株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児

前回のエントリで行なったのは、「マーケティングは科学なのか」という問いを考えるために、「科学とはなにか」というより根本的な問いによって足元を照らしてみる試みであった。

そこでは、科学的な考え方の基礎になるように思えた「帰納的推論」、つまり、カラスAは黒い→カラスBも黒い→すべてのカラスは黒い(一般的法則)という推論のやり方が、原理的な困難を指摘されてきたことを論じた。それは、「斉一性の原理」を不当に前提しているというデヴィッド・ヒュームによる伝統的指摘と、「グルーのパラドックス」という一見イカサマのような、だが極めて反論の難しいネルソン・グッドマンによる指摘を紹介した。

こうした難点を受けて現れたカール・ポパーによる「反証主義」は、帰納的推論を使わずに、真理保存的な性格を持つ「演繹的推論」(典型的には、AならばBである→XはAである→XはBである、といった推論)のみで科学を成り立たせてみようという極めてラディカルな主張であった。

今回、ポパーの提起を経由したなかで、問いはさらに方向転換することになる。「科学とはなにか」から「科学ではないものはなにか」という問いへ。


■疑似科学と科学の「線引き問題」

実は、そもそも「マーケティングは科学ではない」とされて困る人はあまりいないかもしれない。しかし、マーケティングは「疑似科学」だと言われると少し様子が違ってくるだろう。なにか偽物めいたレッテル貼りや、科学であることを詐称しているようなニュアンスを感じる人は多いはずだ。

科学とはなにかを考えることは、裏返せば「科学でないものはなにか」ということを考えることに等しい。
この世の中には、科学のようで科学でない(とされる)ものが多くあり、例えばUFO研究、超心理学、オカルト学、占星術や宗教教義、ニューサイエンスなんてものもある。もう少し専門的学問に近いものでも、創造科学、精神分析やマルクス主義経済学などなど… これらの領域は、科学だと主張する人が一定数いる/いたものの、現在の科学の水準からは「疑似科学」とされることの多い領域である(かなり濃淡はあるが)。


例えばその中のひとつ、「創造科学creation science」をとりあげてみよう。
現在の生物学の常識を形成しているのは、チャールズ・ダーウィンらが1859年に出版した『種の起源』を主な発振源とする進化論evolution theoryである。進化論は、生命の発生について、数少ない特定の種から長い年月をかけた自然選択によって進化・分化してきたと説明する。ダーウィンの頃はまだ異端とされる説であったが、現在では進化論にはすでに多くの証拠が集められ、日本でも常識的な知として人口に膾炙している。

創造科学は、このダーウィン進化論に真っ向から反対するものだ。「創世記」の記述のとおり、天地すべて、神による創造物であり、生命も人間もその例外ではないとする。これは特に日本では一笑に付されてもおかしくない主張だが、キリスト保守派の多いアメリカ南部では、多くの人が信じている説である。

実際、ルイジアナやペンシルバニアなど州では、公立学校の教科書として創造科学的主張を含むものを採用する是非を巡って裁判が起きるなど、現在でも極めてアクチュアルな問題としてある。そもそもダーウィン流の進化論の考え方が生物学者の中でのコンセンサスになったのは1930年以降のことであり、創造科学を「疑似科学」だとするにはきちんとした根拠を求められる。

これらの科学と、我々が信じようとしている「科学」という営為は、なにがどう違うのだろうか。この問題は、疑似科学と科学の「線引き問題demarcation problem」として議論されてきた。

線引き問題に関する多くの議論の中でも、ここでは簡単に

 1.検証可能性基準
 2. 反証可能性基準
 3. 反証時の態度

の3つに整理して、科学と疑似科学の見分け方案として確認してみよう。


■疑似科学の見分け方案@「検証可能性基準」

科学と疑似科学の線引きを直感的にとらえるとき、次のようなアイデアがまず自然に思い浮かぶ。

 見分け方案1.jpg

これを「太陽は西から昇る」が正しいことを証明できれば(太陽が実際に西から昇ることを確認できたなら)、その主張を含む命題を科学的なものとみなしてよいだろうとする考え方だ。これをここでは検証可能性基準と呼ぶ。

しかし、前回のエントリで述べてきたのは、この「正しいことを証明する」ということの原理的な難しさだった。カラスAは黒い、カラスBは黒い、カラスCは黒い、よってカラスは黒い…とするような、基本的な帰納的推論がそもそもの困難を内包していることは前回述べたとおりだ。

また、この「正しいことを証すことが科学である」のような規定は、これまでの科学史の実際との噛み合わせが非常に悪い。たとえば「燃素」や「エーテル」のように、現代の科学水準からは存在が否定されているが、長い間真実だとみなされてきた科学的な命題は歴史上に数多く存在する。「正しいことを証明できる命題」は、ある営為を科学か科学でないか決めるのに、その営為の結果を先回りしてしまうような、奇妙な論理を含んでいる。


■疑似科学の見分け方案A「反証可能性基準」

では、【案1】の方向性を逆にしてみたらどうだろうか。

見分け方案2.jpg

前回紹介したカール・ポパーの反証主義が提議したのがこの基準である。
例えば、上の「神が世界を創った」とする創造科学の主張の一部は、この基準によって疑似科学とすることができるように思われる。
創造科学は、進化論者がどれだけ証拠をあげてきても(たとえば、A種とB種の進化の間にあるような中間のA'種の発見)、「それは、神が世界をそのように(段階的に進化しているように)創ったからだ」と反論することができる。しかしこの基準を用いれば、上のようなロジックでは、創造科学は間違っていることを証明できず、科学足り得ないということになる。

また、ポパーによれば、マーケティング・リサーチにも応用されるフロイト流の精神分析もこの反証可能性基準を満たさないものの典型だ。フロイト理論は、自我・超自我・イドといった概念装置によって精神疾患を抱える患者の「潜在的な欲望」の存在を指し示していく。
だが、その欲望がなんの兆候にも現れてこない時、その欲望は「超自我によって抑圧されている」とフロイト説は説明する。つまり、フロイト説によれば、潜在的な欲望は、表面に現れても現れてこなくても、その存在が指摘できてしまうことになる。このような説明は、反証可能性を最初から与えられておらず科学に値しない、とポパーは言う。


だが、この反証可能性を用いた基準も、盤石のものではない。間違っていることを証明できるのにも関わらず、疑似科学だとみなされている例は実は多く存在している。簡単な例をあげれば、占星術や占いは一般的にみて科学とは言えないが、占いが行う未来の予想は、予想が外れる可能性を排除しておらず、そこだけを取り出すと反証可能性をもっている。どうもこの基準でも線は綺麗に引くことは難しそうだ。

どうやら、もう少し線を引くためには、「反証された時の論者の態度」という側面に着目する必要があるようだ。そう考えて出されたのが次のアイデアになる。


■疑似科学の見分け方案B「反証時の論者の態度」

上の反証可能性基準は、応用的に、「反証された時の論者の態度」という要素への着目をうながした。
たとえば、マルクス主義科学は、いくら歴史的窮地に立たされようとも、マルクスの主張とそれを応用した科学観を手放そうとしなかった。科学の前進的発展という側面からみても、科学かどうかを見極めるには、反証された時の論者の態度が要素として絡んでくるようだ。そこで、次のような案が考えられる。

 見分け方案3.jpg

反証されたときに、仮説をきちんと放棄して別の仮説をたてていく。これが反証主義から応用的に導かれる基準案だ。

ただ、どうも科学史を見ると、この基準に当てはまらないが科学とされるものがある。
例えば、天王星の軌道を調べていた時、その軌道は物理学の基礎法則であるところのニュートン力学の法則に逆らっていた。
だが、このことによってニュートンの法則は撤廃されることはなく、むしろ天王星の外にある未知の惑星の存在が予想されることになった。どうも、科学の歴史には、反証されても放棄されないような仮説とすぐに放棄される仮説とがあるようだ。


■線引き問題を無化する、トマス・クーンの科学革命

このような事態をうまく説明し、科学史上に大きなインパクトを残したのが、トマス・クーンが1962年の『科学革命の構造』で提唱した「パラダイム」の概念の導入だった。

書影.jpg

クーンの考えは、科学が反証と証明を繰り返して前進的・蓄積的に発展してきたという(われわれの多くも持っているような)素朴な科学観を打ち破るものであった。

パラダイムという言葉で何を指しているかということについてはクーンの言い方にも曖昧さは残るが、パラダイムとは主に、その時代の基礎的な科学理論であり、科学を含んだ世界観とそのモデルであり、「なにが科学的に重要か」を決める議題設定の機能までを含むものとされることが多い。
そして、科学の営為におけるこのパラダイムの転換は、クーンによれば次のようにすすむ。

 科学革命.jpg

科学者の間である支配的なパラダイムが成立すると、一旦「通常科学normal science」という、そのパラダイムに則った科学の仕事が行われる時期が暫く続く。ここでは、パラダイムによって課題となる事象についての検証と解決が繰り返される。

しかし、その通常科学のフェイズの中で、どうにもそのパラダイムでは解決できない事例、アノマリーanomalyが蓄積されていき、そのアノマリーの解決を目指してパラダイム自体の検討が始まる時期を「異常科学extraordinary science」と呼ぶ。そして、その中で全く新しいパラダイムが提唱され(科学革命)、そのパラダイムの下でまた通常科学が展開していく、という循環を描いていく構造をクーンは提出した。

このようなクーンの科学革命説は、進歩的で前進的なものだと考えられていた科学観を根本から打ち崩すものであった。我々がぼんやりとイメージしているような業績を蓄積し真実に到達していくような科学のイメージは、クーンのパラダイム論によって大きなダメージをうけ、「科学」というものの定義を問いなおすことになる。

クーンの説に則れば、ある分野が「科学」とされるかどうかは、上で述べたような特定個別の条件をクリアすればOK、と線が引けるわけではなく、その時の支配的パラダイムとの関係性で決まってくることになる。

クーンのパラダイム論は、科学哲学の議論が考慮すべき要素をぐっと増加させた。例えば、そこでは科学者の共同体の存在が重要視され、ここから発展的に、実験室や研究活動において科学者らがどのような振る舞いをしているかを実地的に研究するデヴィッド・ブルアらの「科学的知識の社会学(SSK:Sociology of Scientific Knowledge)」が生まれてきた。ここでこの連載の名がようやくでてくるが、詳述はまたの機会に持ち越そう。


■マーケティングは科学か

ここまで、科学と科学でないものの線引きを考えることによって、翻って「科学」のおぼろげな輪郭を掴んできた。
ここで、最初の問いに戻ろう。マーケティング(リサーチ)は科学的な営為だろうか。

たとえば、「50代の男性の多くは喫煙行為を同僚とのコミュニケーション手段として捉えている」といったマーケティング・リサーチの仮説は、真か偽かを十分にテストできる。

ランダムサンプリングや帰無仮説(反証)を用いた統計的な手続きは教科書的なお題目となることも多いが、お題目であっても論理的で合理的であろうとする態度は科学的に見える。少なくとも、「疑似科学」的な怪しさーーここまで、その「怪しさ」を明確にさすことの難しさを述べてきたわけだがーーとは遠いところにあるように思う。

ただ、私見では、マーケティングが十分に科学と言い切ってしまえない理由は、1.「共同体を支える制度が弱いこと」と、2.目的が「真であること」からずれていることにある。(※そもそもマーケティングの範疇論になるとまた数千字を費やすことになるので、ここでは触れない)

社会において、「科学」は論文発表や査読制度、各研究機関の学会や機関誌といった具体的なプログラムに支えられている。科学はそれがひとつの真実への収斂は促さずとも(むしろ逆に枝分かれしていく迷路であるとしても)、専門分化したそれぞれの分野ごとに成果の発表・開示機能と研究のアーカイブ化を担保する具体的制度を用意してきた歴史がある。
クーンのパラダイム論でいうところの「科学者の共同体」のようなものの存在を支える機構が、マーケティングについては(無いとは言えないものの)かなり弱いことは否めないだろう。


また、多くのマーケティングの活動で得られた命題は、ほとんどの場合、利害関係を共有する特定企業内の流通に限定されてしまう。マーケティング行為のモチベーションの根源は、競合他社との「情報の差異」から利潤を作り出すことであり、そこでは「真であり・かつ他社には知られていない命題」だけが高い価値を持つ。

社会的営為としての科学では、いくら哲学上で「真である」状態が規定しにくいものだとしても、「真である/偽である(とみなされること)」ことが原理的な二分法として機能するが、マーケティングはそのコードはあくまで二次的なものに転落する。

「真/偽」の判断が直接行為の利得に直結しないこの構造は、科学との大きな溝を生み出しているように思う。また、上の共同体的な視点からみても、このことは「競合他社にーーつまりマーケティングの潜在的共同体にーー発見事項を伝達・発展させていく」ことへの逆方向のモチベーションを創りだしてしまう。

制度が未整備であるがゆえに共通の前提が蓄積されず、情報の流通へのモチベーションが薄弱であるが故に伝達の経路が十分で無いマーケティング業界では、何十年も同じようなイシューを繰り返し議論していることが多い。それはマーケティング従事者の怠慢というよりも、上のような構造上の限界が由来しているのではないだろうか。このことが「科学とはなにか」を考えてみて見えてきたことである。


■科学の分化と全体性への意思

ガリレオ・ガリレイ、ロジャー・ベーコン、アイザック・ニュートン、エルンスト・マッハといった過去の偉大な科学者は、科学についての具体的な事象を研究しつつ、科学の原理的な問題を考え続けた。この列にアリストテレスやレオナルド・ダ・ヴィンチといった近代以前の知恵者の名前を連ねることも可能だろうが、歴史上の科学者の多くは、同時に偉大な科学哲学者としての思考も残してきた。

だが、多くの分野が専門分化した現代では、こういった「科学とはなにか」という問いを主導するのは科学者ではなく、科学哲学という別の分野の(多くは言語哲学、分析哲学、論理学の)専門家となっている。つまり、科学者は科学哲学のことを考えずに科学を行なっているし、行えているのが現状だ。

そして、そのような事態と類することは、同様にマーケティングの世界でも起こっているように見える。
メディアチャネルの多様化と物流の複雑化、グローバル市場に飲み込まれていく市場環境において、個々のマーケター・リサーチャーがマーケティング全体のことを考える必要性と可能性は薄れ続けている。

マーケティングの全体を貫くような意思が失われ、「全体」が曖昧になることによって失われていくことが、マーケティングにとってどういったことを帰結するのだろうか。そのことを「科学」という長い伝統が残してきた道筋に比して考えるきっかけとなれば、今回のエントリの役目は終わる。