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社会学のすゝめ 【最終回(第42回)】

2015/08/19

タグ:小林祐児 社会学 現代社会をどう見るか

株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児

これまで約4年間にわたって連載させていただいた社会学のすゝめだが、今回が最終回を迎えることとなった。

今回まで、通常業務の合間にテーマを即興的に決めてきた。その荒い筆致に嘆息しつつこれまでのエントリを振り返ってみると、そのテーマは大きく大分して、「現代社会をどう見るか」「現代社会をどう測るか」「現代社会はどう成立してきたか」という3つの問題関心を抱えていたように思う。

そこで今回のエントリでは、最終回らしく(?)これまでの4年間の記事を上の三つの関心に沿って振り返りながら、マーケティング・リサーチにおいて社会学に何ができるかということについての筆者の考えをお伝えすることで、拙い連載の幕引きとすることにしたい。


■現代社会をどう見るか

マーケティングに限らず、何か世の中の動きや現状を考えようとするとき、それをどのように見極めていくか、という漠とした課題がある。
そういった社会の、ひいては世界の眺め方について、社会学の視点の独自性はしばしば「当たり前を疑う」視点、と表現されることがよくある。われわれは社会の一部でも有りながら、社会を客観的に見つめようとする。その時、生きる上で浸っている「当たり前であること=自明性」を脱却することで、新しい視点が得られるという発想だ。

だが、この「当たり前を疑う」というのはすでにやや陳腐なフレーズであるし、内容があまりにも曖昧模糊としている。「自明性を疑う」ことを目指すよりも、そもそも「社会にどのような自明性がひしめいているか」を感じ取るほうがずっと大切であるような気がする。


そのような関心の元、第33回で述べたのは、「現代社会は複雑なのか」という問いから、ニクラス・ルーマンの社会システム理論の発想を経由して、そのような「社会のありそうもなさ」に気づくことだ。〈複雑性の縮減〉という機能への着目と〈底の抜けた複雑性〉という発想と見てみると、社会的営為=コミュニケーションが秩序をもって成り立っていることがそもそも奇跡のようなものであり、その「ありそうもなさ」が見えてくる。

この「ありそうもなさ」について、上では社会システム理論のような極めて抽象的な視点から、下のエントリではもっと小さな2者間の対話状況から考えたものになる。


ここでは、「会話相手が何を考えているかがお互いにわからない」という単純な事実からスタートする「二重の偶発性―ダブルコンティンジェンシー―」という問題を通じて、しばしば「エスノグラフィー」と混同されてしまうエスノメソドロジーの方法論について紹介した。続くエントリの会話分析の手法と通じて、我々が無意識に行なっているいつもの会話が、ある意味では非常に特殊な「当たり前」に満ちていることを示す社会学の仕事である。


■現代社会をどう測るか

そして、社会をどのように捉えるかのすぐ延長線上には、社会をどのように観察・分析するか、というより具体的な問題系が続いてくる。だが、単純な調査手法・統計手法の紹介・応用については、マーケティング・リサーチもこれまで多くの知見を積み重ねているし、いろいろな場所で公開されている。そこで、本連載では、少し趣きを変えた角度から各種の調査で使われる手法や分析について眺めてきた(上の会話分析の手法もその1つだ)。




これらのエントリでは、ジニ係数や参与観察といった測定の仕方から、「平均値」「購買理由」といった具体的項目について、マーケティング・リサーチの教科書には絶対に載らない内容ではあるが、リサーチの教科書とは違うところから光をあててみた。そこでは「読み方」ではなく、その変数を読むことそのものが何をしていることになるのか、という分析の自明性を掘り崩すことにもつながる。

このあたりのエントリは、統一的な具体的トピックへの関心に応じてふりかえっていただければ幸甚である。


■現代社会はどう成立してきたか

社会学の作法として、社会の観察結果を社会史の大きな文脈の中に位置づけることで、現在の社会性の特異さ(と変わらなさ)を同定していくという面がある。広告、老人、そして恋愛(結婚)といったテーマをとりあげてきた。現在のそれらの姿が現在とは違う姿であった前史を知ることで、「当たり前」の「当たり前で無さ」を具体的な事例から垣間見たものとなる。






この中でも、特に19回の「広告の社会学」は、我々が「消費者」と簡単に扱っている市場を生きる生活者の姿が、どういった経緯で生まれてきたかを「広告」の歴史に重ねながら考察したものである。それはつまり、現在につながるマーケティングの生活者にむける眼差しの「観察の仕方」がどこから生まれたかを考える意味で、まさにマーケティング活動と直結する領域であった。


■心理学偏重から社会学へ

4年間でとりあげてきたエントリを、ざっくりと大きく整理してきた。このような雑多な問題設定からそのテーマを掘り下げることが出来たかは全くもって心もとないが、この他にも周辺の多くのエントリがあるので、興味を抱かれた方は再度目を通していただけたらと思う。そして、とりあげていく大きなテーマとは別に、本連載全体での筆者の思いは2つあった。


1つは、マーケティングの学問への参照先を、心理学偏重の現状から少しでも社会学に近づけたいという思いである。
筆者個人は社会学を学び、世論調査とマーケティング・リサーチを経験してきたが、世論調査はともかく、マーケティング・リサーチの現場で社会学の考え方が参照されているのを見たことがほとんどない。多分化した社会学が個別領域に閉じこもりがちということもあるが、もっと互いに参照するメリットは双方にとって大きいと考えている。

よく言われることだが、この成熟した消費社会日本での商品・サービスの差別化は極めて難しい。多くの競合企業が、同様の当たり前のデータと調査結果をもって商品を開発しようとしても、それは競合企業もすでに持っているデータだったりする。

そんな中、マーケティング・リサーチ業界も様々な応用的手法で差別化のヒントを探ろうとしているが、そこでは最近特に、調査の・ユーザーの生活の・マーケティング活動の「当たり前」と思っていることから離脱した発想が求められている。そして、上で述べてきたように、この社会を浸している「自明性の掘り崩し方」のような作法と業績をもっとも蓄積している学問は社会学だと考えているからだ。


■簡単に/役に立つは役に立つのか

もう1つ、"裏"とも言える目的は、マーケティングにおける「簡単に/役に立つ」という規範、言い換えれば「紋切り型」と「実学」への圧力にどうにか抗えないか、というものであった。

「簡単に/役に立つ」という二重の圧力は、それ自体悪いものではない。とりわけ消費者とのコミュニケーションは、シンプルかつ簡潔さが肝になる。それはウィンドウをフラフラと「遊歩」する身体技法を身につけた百貨店誕生以降の消費者を振り向かせるためには必ず必要な態度だと感じている。

ただ、現在、マーケット・社会を分析する側の人間までが「簡単に/役に立つ」という二重の規範に縛られすぎているように感じている。報告書も企画書も「シンプルに・簡潔に・誰にでもわかりやすく」を常に求められる。ただ、社会の分析において簡潔さというのは美徳というよりも、情報内容の無さに直結する。

例えば、「現代社会は人と人がコミュニケーションの絆を失っている社会だ」というよく耳にする簡潔な紋切り型がある。これはある面から見れば確かに真実かもしれないが、ここで忘れられているのは、社会の成員は、「社会を観察しながら・社会を生きる」という二重性の中を生きているという事実だ。
社会をこうした一面性において把握するのは、この(我々と全く同じ身分において)社会を観察している社会成員の素朴さから一歩もでることができない。エビデンスの側面を捨象して述べれば、「人と人がコミュニケーションの絆を失い、それと同時にコミュニケーションの絆を熱烈に求める社会だ」というほうが(まだ)有意義であり実情に即している。


また、自明性を疑うことは難しい。それこそ論理的に自明なことだ。市場の消費者でありつつ市場の観察者である我々自身が、肩まで浸ってしまっている自明性を指摘し・客観視し・処理することは容易であるわけがないし、それを伝えることは必然的にいつもと異なる慣れない思考を必要とする。そして、「役に立つ/立たない」の判断は、その判断を行う立脚点の自明性によりかかっている。

マーケティングはしばしば「実学」と呼ばれ他の学問領域と区別されるが、その言葉には多分に「役に立つ」という規範的価値が含まれている。しかし、役に立つという判断基準を可能にしている「自明さ」を外すことができない実学は、その「自明さ」ごと動いていく社会の動きに対して、後続的に・受動的に反応するものになる。不変だと思っていることがいかに変動してきたかを知ること、そうすることで初めて「そうした可変的なものが、なぜ不変だと感じられているのか」という次のステップに進むことができる。


■最後に

慣習というよりも惰性的な習慣となってマーケティング業界全体を覆っているように見える、「簡単に/役に立つ」の二重の軛をどうにかしたいという思いで、ここまで決して読みやすいとは言えないエントリを4年間も紡いできた。

42回の連載中、どこかで一度でも「難しさ=常識から離れること」の必要性と、「役に立つ」の前にあるものに目を向けるきっかけを感じていただけたのなら、筆者にとってそれ以上嬉しい事はない。

最後になったが、これまで読んでいただいた読者の方々、そして執筆の機会を与えていただいた弊社メンバーにも、この場を借りて深く御礼申し上げたい。4年間、本当にありがとうございました。またいつかどこかで拙筆を目にすることがありましたら、このだらだらと続いた幼い連載のことを思い出していただければ幸せです。

小林祐児