株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
取締役フェロー 澁野 一彦
◆視座を低く、視点を柔らかく
暫く無精していた?メルマガが1年ぶりに再開することになった。これを契機に、節目を超えた自身の現在地と今迄の経験を“学びほぐす”という趣旨を踏まえ、当コラム名の名称を変更することにした。
最近の調査では、今の高齢者は心身共に実年齢より10歳若いというデータもあるようなので、ここでいう「シニア」は、単なる「年長者・老人」ということだけでなく、マーケティング・リサーチに携わった期間が長い「経験者・ベテラン」として意味も含めて捉えてもらえれば幸いである。
当コラムについては、今まで連載してきた高齢者マーケットのトピック的なテーマに関わらず、今のニッポンが抱える様々な課題やマーケティングに関わる話題を取り上げ、少し違った角度から考察していきたい。
できるだけ視座(目線)を低く、視点を柔軟にして、皆様に新しい気づきを提供できれば幸いである。
さて、再開一稿目ということで、今回は『視点』について考えてみたい。
◆目で捉えた世界が全てではない
私たちのマーケティング・リサーチの世界では、1つの物事を多面的に捉えることで、いろいろな気づき、新しい切り口を導き出すことを教わってきた。消費財のマーケティング・リサーチでは顧客の視点を最も重視し、様々なユーザー(男性・女性、シニア・若年、ロイヤルユーザー・ライトユーザー・非使用者・・・)の視点で物事を捉えることで、多様な顧客ニーズを把握し、未充足のニーズや見落としていた価値の提案を行う。
ところで、当たり前であるが、この「視点」という言葉は私たちの視覚=見えることを前提として成り立っている。
人が得る情報の八割から九割は視覚に由来すると言われている。私たちの暮らしぶりをみても、ほとんどの生活の術(すべ)は視覚に依存しており、時間を時計の文字盤の数字を見て確認し、道案内や道路標識を文字や記号、絵を見て認識する。
消費の前線である店頭を見ても、商品の訴求の中心は視覚を刺激するパッケージデザインやPOP広告であり、人々の購買意欲を駆り立てるのはあくまでも目から入る視覚情報に依るところが大きい。
このように、私たちはついつい目で捉えた世界がすべてだと思い込んでいるのではないか。
本当は、耳で捉えた世界や手で捉えた世界があってもいいはずだが・・・・。
では視覚以外の“視点”とはどんなものだろうか?
◆視覚に依存しない視点
このような問題意識を持って、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗氏/光文社新書)を
読んだ。
東工大で美学を教える研究者の著者は、視覚障がいの人達にインタビューやワークショップを実施する中で、彼らがどのように外界を捉えているのかということを、身体の感覚を軸にして説明する。
本書はいわゆる福祉という観点でなく、あくまで身体論を扱った本である。「障がい者とは、健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人」だと著者は言う。
「見える」からこそできることもあれば、できないこともある。同様に、「見えない」からこそできることもあれば、できないこともある。「見えない」ことを欠落としてとらえるのではなく「差異」として捉え、「差異を面白がる」のが著者のスタンスである。
〜「大岡山はやっぱり山なんですね」
著者はインタビューをするため、全盲の視覚障がい者のK氏と、東工大がある目黒線の大岡山駅の改札で
待ち合わせた。その後2人は交差点を渡ってすぐの大学正門を抜け、研究室に向かって歩き始めた。
その途中、15メートルほどの緩やかな坂道を下っていた時、K氏が言った。
「大岡山は、やっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」。
その言葉を聞いて、著者はびっくりした。なぜなら、そこをK氏は「山の斜面」と言ったからである。
毎日のようにそこを行き来している著者にとって、それはただの「坂道」でしかなかったから。※本書より抜粋
《目の見えない人が見た大岡山》
※出展:「目の見えない人は世界をどう見ているか」(光文社新書)
目の見える人は、視覚に頼りすぎているため、身体で認識するという感覚が欠落しているという見方もできる。同じ坂道を歩いていても、見える人と見えない人では空間の把握の仕方が違うのだと著者は言う。
見える人は、目から入る情報を「平面」に統合して整理する。テレビ画面のように奥行きはあっても平面、2次元だ。しかも、坂道がどのような地形の上に成り立っているかは関係なく、目の前の光景だけ切り取って把握する。見えない人は「坂道」の言葉の意味・概念をまず考える。足から伝わる「斜面」は、何の斜面なのか?
地名が「大岡山」であれば、「ああ、ここは山の一部だ」と捉え、脳内には「俯瞰的で立体的な山」のイメージが
浮かび上がる。
〜見える人は2次元、見えない人は3次元?
見える人と見えない人の「空間把握の違い」について、「富士山」という言葉からのイメージを例に挙げて説明する。健常者(晴眼者)の描く富士山は、大体が「八の字の末広がり」「上が欠けた三角形」であり平面である。
しかし見えない人にとって富士山は、「上がちょっと欠けた円すい型」の立体形であるという。
3次元を2次元化することは、視覚の大きな特徴である。「奥行きがあるもの」を「平面化する」ことは、今まで
見た絵画やイラストが提供する経験・文化的先入観によって補強されるという。
「見えない人」にはそうした刷り込みがなく、まるで辞書に書いてある記述を覚えるかのように対象を理解している。特に富士山のような実際に触れられないものに関しては、模型を使って覚えているため、「概念的」と言える理解の仕方をするそうだ。
《目の見える人が見た富士山》
《目の見えない人が見た富士山》
※出展:「目の見えない人は世界をどう見ているか」(光文社新書)
五感の中で視覚は特権的な位置を占めている。だがらそれが偏見を与え、ものを見誤る例にもなる。
「見えない世界」を考えることで、見えてくるものがある。
視覚だけにとらわれず、私たちはどのようにして世界を見ることができるのか。ものの見方のもっと広い・深い
視点に気づかせてくれる。
◆マイノリティ(少数派)の視点
健常者を「平均的なユーザー」とすれば、障がい者は「極端なユーザー」である。
極端だからこそ、健常者が気づかないような潜在ニーズを発見でき、新しい切り口を導き出すヒントになる。
今、日本でも多様化が進み、様々な価値観を尊重し共創・共存する社会が求められている。
高齢者、障がい者、外国人、性的少数者など多種多様な人々が共存するには、多種・多様な視点で社会を見つめ直すことが必要になる。
健常者は障がい者と接する時、差別してはいけないとの思いからか、あえて違いを意識せず、見て見ぬふりをする。しかし、見て見ぬふりをする代わりに、違い(差異)に関心を持って見れば自分の見方も変わってくる。
「見えないことは、欠落でなく、脳の中に新しい扉が開かれること」(福岡伸一氏の帯紙書評から)
少数派(マイノリテイ)の視点は、多数派(マジョリティ)の固定概念を打ち砕く可能性を秘めている。
そのような視点を、多数派の基準で欠落と捉えたり、敬遠することなく、むしろ私たちの「当たり前」を見直すための貴重な機会と考え、視野を柔軟にしたいものである。
つづく
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資料
・「目の見えない人は世界をどうみているのか」(伊藤亜紗:光文社新書)
・朝日新聞「目の見えない人は世界をどうみているのか」書評