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<title>JMAリサーチ道場</title>
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<description>JMA - 株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシーの情報発信の場として、マーケティング・リサーチに関する色々なトピックを取り上げていきます。</description>
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<title>第8回「シニアの消費を喚起する（シニア考5）」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー代表取締役社長　澁野　一彦 ◆シニアは&amp;quot;買い物頻度が高い&amp;quot;貴重な顧客「シニア層は買い物頻度が高い大事なお客様」。大手スーパーの幹部はそう話し、高齢者向けのサービスに力を入れ始めている。(3月某日朝日新聞経済記事より)前回の当コラムで高齢者層はインターネットビジネス（通販など）のターゲットとして有望と書いたが、高齢者層はリアルな店舗でも注力すべき顧客としてウエイトを増しているようだ。当社で昨年実施した高齢者層（..</description>
<dc:subject>ＪＭＡマーケティングコラム</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-04-25T11:31:42+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[

<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">代表取締役社長　澁野　一彦</div><div><br /></div><strong>&nbsp;◆シニアは&quot;買い物頻度が高い&quot;貴重な顧客</strong><br /><hr /><br />「シニア層は買い物頻度が高い大事なお客様」。大手スーパーの幹部はそう話し、高齢者向けのサービスに力を入れ始めている。(3月某日朝日新聞経済記事より)<br /><div><br /></div>前回の当コラムで高齢者層はインターネットビジネス（通販など）のターゲットとして有望と書いたが、高齢者層はリアルな店舗でも注力すべき顧客としてウエイトを増しているようだ。<br /><div><br /></div>当社で昨年実施した高齢者層（60～79歳）を対象とした調査で日常の買い物頻度を尋ねたところ、<u>女性層では「週5日以上」買い物をする人が36％、「週3～４日以上」を含めると8割</u>を超える。<u>男性層でも「週5日以上」買い物をする人は13％存在、「週３～4日以上」を含めると5割弱</u>に達する。<br /><div><br /></div>買い物をする時間帯もほぼ9割が決めており、顧客が減少傾向にある中で高齢者層は<u>売上げを見込める優良なお客様</u>である。すでにシニア向けの専門店やクリニックを併設した大型ショッピングセンターもオープンし、&quot;買い場&quot;は徐々に高齢者（向けに）にシフトし始めている。<br /><div><br /></div><div><br /></div>売り場は順次、文字表示を大きく見やすくし、売れ筋商品が並ぶ「ゴールデンゾ－ン」も上段から2番目の棚に移すなど高齢者の加齢に伴う視線下落（瞼の重力の問題？）に合わせた売り場作りが行われている。<br /><div><br /></div>また同じ記事の中で、大手スーパーが「15日」をキャンペーンセール開始日にしていることを伝えている。<br />年金が偶数月の15日に振り込まれるからで、この日は高齢者のサイフが豊かであるというわけである。イトーヨーカドーでは、4月15日から65才以上向けの電子マネー「シニアナナコ」を使えるようにした。毎月15日にこれで商品を買うと5％割引になり、かつ毎月15日はポイントが5倍になるそうである。<br /><div><br /></div><div><br /></div>単身世帯に強いコンビニエンスストアの売り場も、高齢者の夫婦世帯、独居世帯を意識し、少量の野菜やお惣菜、お弁当といった個食対応の品揃えを強化しシニア層にアピール。コンビニは居住圏に近いというアドバンテージもあり　スーパーとの高齢者顧客の獲得競争に本格的に乗り出している。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>◆シニア層の&quot;買う気にならない&quot;気分</strong>～高齢者の消費マインド<br /><hr /><br />このようにスーパーやコンビニなどサービスを提供する側の施策はエスカレート気味であるが、サービスを提供される側である高齢者層の消費マインドや行動特性はどうなのか。<br /><div><br /></div>前回のメルマガで、高齢者に仲間入りする団塊世代は今までのシニア層に比べ貯蓄が多い（資産富裕層が多い）点を指摘したが、一方で団塊シニア層は退職年代に差し掛かるため定期的な身入りはなくなり（収入は年金が主体に）、フロー所得は激減する。　<u>確かに資産はあるが　入ってくる収入がないため、ストックを少しずつ切り崩していく状況</u>になる。<br /><div><br /></div>購買余力の面で期待されるシニア層であるが、このような状態なので実は消費支出は他の世代と比べて低下傾向になる。（家計調査より）<br /><div><br /></div>このため消費意識としては<u>「無駄な出費はしない」「余計なものは買わない」「高額商品は買わない」「日常生活を切り詰める」など　&quot;買う気にならない&quot;という気分がどんどん助長</u>されていく。<br /><div><br /></div>過去経済悪化により金融資産が目減りした手痛い経験、そして加齢による健康不安、経済不安、孤独不安や介護・・・など将来の生活不安、年金問題、震災による原発問題など、不安を増幅する悪影響要因には事欠かない。自身は老化し、社会の将来に対する明るい展望が見られない中で、ストックをフローに変えることが難くなっているのが今の実態である。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>◆シニア層の消費を喚起する</strong><br /><hr /><br />ではどうしたらこのような不安心理を内在しているシニア層の消費を喚起できるか。<br />それは高齢者層の生活変化に対応し、そこで発生するニーズを的確にキャッチアップすることである。<br /><div><br /></div><strong><u>(1) 加齢による体力、知力の衰えに対応</u></strong><br /><div><strong><br /></strong></div>悲しいかな人は加齢するに伴い、運動機能、知覚機能、認知機能などさまざまな器官や機能が衰えてくる。<br />このような機能の衰えを補完し、普段の（快適な）生活を維持するため、本来的意味でのエージングケアに関する意識は高まり、これまでと異なるニーズが生まれ、そこに付随する使用商品のユーザービリティの見直しやケアサービスに対する消費を誘発する。<br /><div><br /></div>前回も述べたように高齢者視点に配慮したインターネットのユーザビリティの再定義やアンチエージング商材の人気はその一例である。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong><u>(2) ライフステージ変化に伴う買い替え消費や住み替え、そして地消</u></strong><br /><div><strong><br /></strong></div>男性は退職により、また女性は子育て完了により生活スタイルに大きな変化が生じる。<br />子供が独立した家庭では、家庭内の人員構成が変わり、耐久財（車や住宅）のダウンサイジング消費が進行する。<br /><div><br /></div>また男性は会社から家庭に居場所をシフトするため、新たな家庭内マーケット（オヤジ滞在による&quot;不機嫌な？&quot;内食マーケット）や地消（地域消費）マーケットが生まれてくる。シニア世代の生活の場は、家庭であり、地域社会である。はからずも地域に立地するショッピングモールは高齢者の&quot;たまり場&quot;としてこの役割（地消＆滞在市場）を代替し始めている。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong><u>(3) 距離は短く、サービスは身近に</u></strong><br /><div><strong><br /></strong></div>「遠いスーパーではなく、近場のコンビニに行くようになった」。<br />高齢者にとって買い物の移動距離の長さは大きな負担である。住まいに近い店舗はそれだけでベネフィットになる。また宅配サービスや移動販売も消費の距離を短くする。<br /><div><br /></div>チケｯﾄ販売機や現金自動出入機（ATM）などの設置もシニアにとって移動時間の短縮、軽減をアピールできるサービスである。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong><u>(4) 消費する側だけでなく、提供する側（支える側）としても機能させる</u></strong><br /><div><br /></div>前回「シニアは誰も自分をシニアと思っていない」と書いたが、ソモソモ元気なシニア層をむりやり高齢者と決め付け社会の弱者にする必要はない。現代の高齢者層はいつまでも<u>現役志向が強い消費者</u>である。<br /><div><br /></div>徳島のおばあちゃん達（７０~８０歳代）が料亭や旅館の料理に添える花や葉っぱを収穫し、市場に流通させるビジネスを成功させた話「おばあちゃん達の葉っぱビジネス」は有名であるが、これにより彼女たちは小額の小遣いと&quot;生活の生きがい&quot;を得ることができた。そしてその小遣いをフロー所得として消費に回している。<br /><div><br /></div>リタイヤしても、生きがいややりがいを持って社会と繋がっていたいという思いを持っている高齢者は多い。小額の対価の提供で構わないから、<u>高齢者自身が消費を提供する側（支える側）にも参加できる仕組みを考えることは、シニア層の消費を活性化させる</u>意味でも効果的である。<br /><div><br /></div>＊余談であるが、彼女達は作業している山でも受注が確認できるようAndroidタブレット「GALAXY Tab」をサクサクと活用しているそうだ。必要とあらば　高齢者でもデジタル機器を使いこなせるようになれる。すごい！<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>◆シニア層の消費生活をデザインする</strong><br /><hr /><br />「欲しいものはたいてい持っている」のが今のシニア層の特徴である。<br />彼らにとって&quot;モノ&quot;に対する欲求は既に充足されている。<br />これからは既にある&quot;モノ&quot;をどう活かしていくか、あるいはシニア層の生活（変化）に対応しどう再生するか、浪費ではなくストックになるものをどう創り上げていくか　というところに商機が生まれる。<br /><div><br /></div>そのためには生産するだけでなく、<u>どう提供し、どう使ってもらうか、またどう楽しんでもらうか　（またその工程にどう貢献できるか）という　新たな生活の仕方を提案・実践させていくこと</u>がこれからのマーケティングの方向である。<br /><div><br /></div>シニア層の加齢特性や消費性向、そしてシニアの生活視点での複雑な心理（インサイト）を多面的に理解することで、シニアを&quot;買う気にさせる&quot;　マーケティングが初めて現実的になってくる。<br /><div><br /></div><div style="text-align: right">続く</div>　<br />　
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<title>第8回「アクティヴ・インタビューと〈社会構築主義〉（後編）」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー企画部　　小林祐児（コバヤシ　ユウジ） 「社会学って何をする学問なんですか？」四月。桜が短い美しさを散らせるころに、大学の新入生たちが人生で初めて受ける「社会学入門」やそれに類する授業で、しばしば投げつけられる質問の一つだ。そして問いを受けた講師の答えは、たいてい次のようなものになる。「社会学とは、みなさんが生きている暮らしの中の、当たり前だと思っていること――〈自明性〉――を疑う学問です」前回のエントリにおいて、アクティヴ・イ..</description>
<dc:subject>社会学のすゝめ</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-04-24T23:51:43+09:00</dc:date>
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<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">企画部　　小林祐児（コバヤシ　ユウジ）</div><div style="text-align: center">&nbsp;<a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E4BD95E3818CE7A4BEE4BC9AE79A84E381ABE6A78BE68890E38195E3828CE3828BE381AEE3818B.jpg" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E4BD95E3818CE7A4BEE4BC9AE79A84E381ABE6A78BE68890E38195E3828CE3828BE381AEE3818B-thumbnail2.jpg" border="0" alt="何が社会的に構成されるのか.jpg" width="170" height="250" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E4BD95E3818CE7A4BEE4BC9AE79A84E381ABE6A78BE68890E38195E3828CE3828BE381AEE3818B-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div>「社会学って何をする学問なんですか？」<br /><div><br /></div>四月。桜が短い美しさを散らせるころに、大学の新入生たちが人生で初めて受ける「社会学入門」やそれに類する授業で、しばしば投げつけられる質問の一つだ。そして問いを受けた講師の答えは、たいてい次のようなものになる。<br /><div><br /></div>「社会学とは、みなさんが生きている暮らしの中の、当たり前だと思っていること――〈自明性〉――を疑う学問です」<br /><div><br /></div><a href="http://blog.jma-net.jp/article/259234089.html">前回</a>のエントリにおいて、<font color="#ff0000"><strong>アクティヴ・インタビュー</strong></font>という面接法の方法論を議論のきっかけとしつつ、社会学の学派の一つとしての<strong><font color="#ff0000">〈社会構築主義〉</font></strong>について、その基本的考え方と80年代以降の隆盛までを紹介した。<br /><div><br /></div><div><table border="1" cellpadding="10" width="704" height="70" bordercolor="Black"><tbody><tr><td><strong>ある事象Xは、自然的／客観的実在というよりも、社会的に構成（構築）されたものである。</strong></td></tr></tbody></table><br /></div><div><br /></div>「家族」「性別」「恋愛」といった卑近な事柄から、「国家」「近代」「歴史」といった大きな事柄まで、今まで自分たちの暮らしの前提として当然のように接していた事柄が、地域・時代・人といった社会的文脈によって異なる姿で構築されてきたこと。<br /><div><br /></div>そして、構築のされ方によっては、それらのあり方が自分の慣れ親しんだ姿から大きく異なっていること（異なるものになった可能性があったこと）。〈社会構築主義〉的な業績は、対象を異にしながらも、人びとにそうした気づきや驚きを与えてきた。<br /><div><br /></div>こうした効果を、「社会の自明性を照らす（それによって崩す）」くらいの意味合いに捉えるならば、それは、先ほど描写した授業風景のように、「社会学」という学問の営みの最小公約数的なモチーフへと接近していく。「社会構築主義的発想」は、「社会学的発想」と多くのところで重なりあいながら、前回紹介したような、広く大きな流れを形成していった。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>■「オントロジカル・ゲリマンダリング」と〈社会構築主義〉の陥穽</strong><br /><hr /><br />こうして（社会学全体の輪郭に接近しながら）広がっていった社会構築主義的な志向には、多くの批判と問題点が指摘されてきた。その中でも最も議論を呼んだのが、スティーブ・ウールガーとドロシー・ポーラッチ(Woolger &amp; Pawluch 1985=2006)が投げかけた<font color="#0000ff">「<strong>オントロジカル・ゲリマンダリング</strong>ontological gerrymandering」</font>とよばれる問題である。<br /><div><br /></div><font size="1" color="#808080">※「ゲリマンダリング」とは政治用語で、「（政治家や政党が）選挙区を自党に都合の良いように区分けすること」にあたる。1812年、米マサチューセッツ州知事E ＝ゲリーが自党に有利につくった選挙区の形が、想像上の怪物サラマンダー（火蛇）に似ていたことに由来する。「オントロジカル」は哲学用語で「存在論的」。</font><br />　<br />〈社会構築主義〉に向けられた、オントロジカル・ゲリマンダリングの批判ロジックはおおよそ次のようなものである。<div><br /><div><br /></div><table border="1" cellpadding="20" width="704" height="108" bordercolor="Black"><tbody><tr><td>社会構築主義者が、対象Xの定義が様々に変わることを発見しつつ、「Xは社会的に構築されている」という指摘をするためには、少なくとも《その社会構築主義者にとっては》Xは固定されていなければならない。<br /><div><br /></div><strong>そもそも対象Xを「X」と呼ぶことができなければ、Xが「社会的に構築されている」とも言えない</strong>からだ。だが、その社会構築主義者によるX＝Xの指し示しも、結局一つの「定義」なのではないか？それは、社会的文脈によって様々に異なるその他の「定義」とどのように違うのか？社会構築主義者は、その線引きを勝手に行なっているのではないか？【下図参照】<br /></td></tr></tbody></table><br /><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E382AAE383B3E38388E383ADE382B8E382ABE383ABE383BBE382B2E383ABE3839EE383B3E38380E383AAE383B3E382B0.png" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E382AAE383B3E38388E383ADE382B8E382ABE383ABE383BBE382B2E383ABE3839EE383B3E38380E383AAE383B3E382B0-thumbnail2.png" border="0" alt="オントロジカル・ゲルマンダリング.png" width="631" height="457" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E382AAE383B3E38388E383ADE382B8E382ABE383ABE383BBE382B2E383ABE3839EE383B3E38380E383AAE383B3E382B0-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div>　オントロジカル・ゲリマンダリングは、〈社会構築主義〉への決定的な批判として現れ、多くの後続の議論を巻き起こした。社会構築主義者側からも様々な応答が見られたが、統一的な回答は得られていない（※１）。<br /><div><br /></div>社会生活の中で関わる多くの事柄は、社会的に構築されている（故に可変的である）という社会構築主義的なロジックは、おそらく正しいものだ。<br /><div><br /></div>だがその立場は、同時に自らの首も絞めることになった。結局のところ、〈社会構築主義〉的な梯子外しのロジックは、社会学の特異点とも言うべき、<strong>「社会学者も、社会の外へはでられない」</strong>というアポリア（行き詰まり）の前に、その驚きやショック効果を減じてしまうことになった。<br />〈社会構築主義〉は、流行すればするほど、<strong>「Xは社会的に構築されているのはわかった。……だが、それがどうかしたのか？」という反撃</strong>に合うことになってしまった。<br /><div><br /></div>今をさかのぼること数年前、私が社会学の修士過程に入学した時、社会学の分野は、〈社会構築主義〉が荒らしまわったあとの&quot;荒野&quot;と呼ばれていた。〈社会構築主義〉は、科学哲学者イアン・ハッキングは、「かつては素晴らしいショック効果を誇っていた社会構成というメタファー。だが、いまやそれは退屈な比喩になりさがってしまっている(Hacking 1999=2006:86)」と揶揄していた。<br /><div><br /></div>〈社会構築主義〉の現在的課題は、「Xの構築のされ方」についての経験的な業績を積み重ねつつも、「では、いかに構築するべきか」という次のステップへの示唆を引き出せるような視点を含ませることにあるように思う。社会学という（一応）社会科学の一つとしての倫理的立場とのバランスもとりつつ、という難しい課題だが、少なくとも何らかの実践的示唆を引き出そうとすると、そうした視点は不可欠になってくる。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>■もう一度、アクティヴ・インタビューへ</strong><br /><hr /><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC.png" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC-thumbnail2.png" border="0" alt="アクティブインタビュー.png" width="182" height="255" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div>　ここまでの議論を踏まえつつ、<a href="http://blog.jma-net.jp/article/259234089.html">前回</a>紹介した<strong><font color="#ff0000">「アクティヴ・インタビュー」</font></strong>に戻ろう。<br />　<br />社会構築主義的な発想に基づいて提起されたこの方法論は、対象者の「回答」が、対象者とインタビュアーとの相互作用によって構築されることを強調していた。「回答」は、対象者の内部から言葉によって運ばれる「伝達物」ではなく、インタビュアーとの意味の交換によって様々に構築されていく。<br /><div><br /></div>アクティヴと見做された回答者の背後にある対象者は、事実と経験の内容を保存しているだけではなく、まさに回答としてそれを提供する過程において、それに何かを建設的に付け加えたり、何かを取り去ったり、変えたりするのである。（Holstein=Guburium, 1995,31）<br /><div><br /></div><div style="text-align: center">&nbsp;<a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E4BC9DE7B5B1E79A84E381A8E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC.gif" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E4BC9DE7B5B1E79A84E381A8E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC-thumbnail2.gif" border="0" alt="伝統的とアクティブインタビュー.gif" width="658" height="264" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E4BC9DE7B5B1E79A84E381A8E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC-thumbnail2.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div><div><br /></div><strong>■「構築的」の意味と意義</strong><br /><hr /><br />しかし、社会構築主義が陥ってしまう陥穽は、アクティヴ・インタビューにも当てはまる。「回答」だけではなく、「インタビュアー」の立場も「対象者」という役割も、社会的に構築されているはずだ。それならば、「回答は構築されているのはわかった。……それがどうかしたのか？」と肩をすかされてしまう。<br /><div><br /></div>言ってしまえば、「回答は相互作用による（社会的）構築物である」というテーゼは、それだけでは単に、調査を実施する側の「認識的」問題にとどまるものだ。そしてそれは、おそらく社会構築主義がその「正しさ」によって流行したのと同じ意味において「正しく」、そしてその延長線上において「面白くない」。<br /><div><br /></div>社会構築主義の陥穽から学び、「認識的問題」から、アクティヴ・インタビューという「実践（方法）」へとジャンプするためには、「どうやって」構築するか／するべきか、が焦点になる。結局、<strong>アクティヴ・インタビューの真価は、「回答が社会的に構築される」という<u>社会構築主義的な発想自体には無く</u>、構築的／構築的でないという認識の違いから、<u>何が「方法」として立ち上がってくるか</u></strong>にかかっている。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><strong>■アクティヴ・インタビューの示唆　――「純粋な回答」の失効――</strong><br /><hr /><br />面接法における「いかにして回答を構築するか」の重視。だがそれは、<a href="http://blog.jma-net.jp/article/222221366.html">社会学・人類学のフィールド・ワーカー</a>から、マーケティング・リサーチにおけるインタビューのモデレーターまで、面接調査を用いる調査者らがすでに様々な試行錯誤を積み重ねてきた場所まで戻ってきてしまうように見える。<br /><div><br /></div>周知の通り、優れたインフォーマントの確保も、アイスブレイクのためのワークショップも、「いかにして有効な回答を引き出すか」の課題に対する伝統的な工夫として編み出されてきた。<br /><div><br /></div><strong>ただ、「アクティヴ・インタビュー」の「構築」というモチーフから得られる示唆が無いわけではない。</strong><br />私見では、彼らの認識的な命題から導き出される最も大きい示唆は、<strong><font color="#ff0000">「純粋な回答」という考え方を捨てることにある。</font></strong><br /><div><br /></div>先ほど引用した言葉の後、ホルスタイン＝グブリウムは次のように続ける。<br /><div><br /></div><font size="1">　　実際、回答者は主体的に関わって作り出していることを、自ら「損ねる」ことなどほとんどありえないことである。〔訳注：オリジナルがあれば変形すると損なわれるが、オリジナルが存在しない以上、損なわれることはありえない〕</font><br /><div><br /></div>ここで言う「オリジナル」とは、伝統的なインタビューが想定していた「純粋な」「まじりっけ無しの」「調査の影響がでる前の」「アンバイアス」な回答のことである。<br />だが、「調査へ回答する」という経験そのものが、逃げようもなく「社会的」な営みであることを思えば、どんなに形式的に抑制の効いた調査方法を取ろうとも、そう言った意味での「純粋な」回答など、誰も見たことがないはずだ。「構築されている」という主題で照らされるのは、反対側にある「構築されていないもの」の姿である。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><strong>■マーケティング・リサーチへの示唆</strong><br /><hr /><br />ここからは、マーケティング・リサーチに話を限定してみよう。<br /><div><br /></div>マーケティング・リサーチに従事している人ならば、先ほどの「アンバイアス」で「オリジナル」の回答とは、<strong>「現実の購買決定の時の意見」</strong>だと想定するかもしれない。しかし、少し考えてみれば、現実の購買行動ほど、「社会的」なものはないことはすぐわかる。<br /><div><br /></div>購買行動は、あまりに多くの社会的文脈に埋め込まれた行動であるし、店頭やWeb・パッケージ・広告などのマーケティング戦略が俗に「コミュニケーション」と呼ばれることを思ってもいい。「純粋な購買行動」の存在も想定しづらいし、しかもそれが「純粋な回答」と重なりあうことは、もっと想定できない。<br /><div><br /></div><div><br /></div>「純粋な回答」という考え方を捨てること。それが強すぎるならば、何を「純粋な回答」として仮定するべきか、に考えを及ばせること。その示唆を、マーケティング・リサーチの「クライアントの利益に資する」という第一義的目的と考えあわせれば、リサーチャーは、今大勢を占めているような、「バイアスを防ぐために」様式的に確立された一般的方法論から離れた発想を持つことができるかもしれない。<br /><div><br /></div><div><br /></div>具体的に言えば、<br /><div><br /></div><table border="1" cellpadding="20" width="704" height="96" bordercolor="Black"><tbody><tr><td><strong><br />・マーケティング・リサーチが行う「グループインタビュー」「デプス・インタビュー」はたまた「<a href="http://blog.jma-net.jp/article/259224130.html">MROC</a>」においても、モデレーター役の人間はもっと自己開示を試みてもいいのではないか？<br /></strong><div><strong><br /></strong></div><strong>・最近話題の「<a href="http://blog.jma-net.jp/article/259246242.html">ゲーミフィケーションの調査への応用</a>」によって危惧される「回答の偏重」は、それほど恐れることはないのではないか？<br /></strong><br /></td></tr></tbody></table><br /><div><br /></div>具体的発想は人の数だけあるだろうが、少なくとも、リサーチの実務家が「回答へのバイアス」という言葉を口にする時、その裏に張り付いているはずの「バイアスのない回答」とは、一体どういったものなのか？対象者が「調査の前に」保持している（と仮定されている）回答の姿とは？これまでの一般的な調査が暗黙のうちに前提していた「純粋な回答」の「自明性を疑うこと」（！）。アクティヴ・インタビューと社会構築主義のアイデアは、そうした機会をリサーチャー一般に与えてくれるように思う。<br /><div><br /></div><div><br /></div>【注】<br /><font size="1">（※１）社会構築主義の陣営（陣営というほどまとまりのあるものではないにしろ）からの対応は、おおよそ２つに分かれる。「厳格派」と「コントテクスト派」と呼ばれるものがその２つだが、内容については『新版　構築主義の社会学―実在論争を超えて―』（世界思潮社）所収の田中耕一の論文がまとまっている。</font><br /><hr /><br /><font size="1" color="#808080">【参照文献】</font><br /><font size="1" color="#808080">Hacking, Ian 1999, The Social Construction of What?　Harvard University Press.（＝2006，出口康夫・久米暁訳『何が社会的に構成されるのか』岩波書店．）</font><br /><font size="1" color="#808080">Holstein, J.A. &amp; J. F. Guburium, 1995, The Active Interview, Sage、（＝山田富秋・兼子一・倉石一郎・矢原隆行訳『アクティヴ・インタビュー―相互行為としての社会調査』（せりか書房）</font><br /><font size="1" color="#808080">Woolger, S. &amp; Pawluch, D, 1985, &quot;Ontolical Gerrymandering: The Anatomy of Social Problem Explanations&quot;, Social Problems, 32: 214-227.（＝2006，平英美訳「オントロジカル・ゲリマンダリング――社会問題をめぐる説明の解剖学」平英美・中川伸俊編『新版　構築主義の社会学』184-213，世界思想社．）</font><br />　<br />　　</div>
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<title>第19回「情報の集約化と分散化」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー定性調査部　ディレクター　インタビュアー　吉田　聖美最近何週か続けて雑誌を衝動買いしている。同じ雑誌ではなく、カテゴリーもバラバラ。しばらく、雑誌を購入するということが減っていた気がするのだが、何の変化だろう・・・近年、私の情報入手ツールは、ネットに集約されている。購買行動自体もネットに依存している。飲食店を探そうと思ったら「食べログ」を見るし、旅行の宿泊先を探すにも「楽天トラベル」を見る。書籍は「ａｍａｚｏｎ」で購入し、週に１..</description>
<dc:subject>リサーチャーのつぶやき</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-04-24T23:28:20+09:00</dc:date>
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<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">定性調査部　ディレクター　インタビュアー　吉田　聖美</div><div><br /></div>最近何週か続けて雑誌を衝動買いしている。同じ雑誌ではなく、カテゴリーもバラバラ。<br />しばらく、雑誌を購入するということが減っていた気がするのだが、何の変化だろう・・・<br /><div><br /></div>近年、私の情報入手ツールは、ネットに集約されている。購買行動自体もネットに依存している。<br /><div><br /></div>飲食店を探そうと思ったら「食べログ」を見るし、旅行の宿泊先を探すにも「楽天トラベル」を見る。書籍は「ａｍａｚｏｎ」で購入し、週に１回の生協の配達もネット注文。洋服や靴もネットで買ってしまうし、ＤＶＤもネットで借りている。<br /><div><br /></div>飲食店、宿泊先、ＤＶＤ、書籍など、いくつかの候補の中からの選択が必要なときは、必ずと言っていいほど、ネットの口コミを参考にしている。もはや、それ無しでは選べなくなっているような気さえしてしまう。<br /><div><br /></div><strong>「依存」</strong>という言葉がぴったりだ。<br /><div><br /></div><div><br /></div>このネットを情報源とする傾向は数年前から継続されているのだが、最近の自分の傾向として、どんどん「ネットサーフィン」をしなくなってきた。<br /><div><br /></div>少し前までは、何か気になることがあったときに、どこかのポータルサイトを利用し、画面上に並んだ複数のサイトの中からいくつかのサイトに飛び、そこで気になる言葉などがあると、最初の検索目的とはズレている気がしつつも、更に違うサイトに飛んだりもしていた。<br /><div><br /></div>最近はどうだろうか。調べたいことがあるとまずグーグルを開いて検索し、いくつか挙がったサイトの中ではウィキペディアを優先的に見る、など、<strong>行動が単一化</strong>している気がする。<br />知りたい情報に向け、一直線に進み、寄り道はしていない。<br />○○に関する情報であれば、○○サイトが一番、など自分の中で最短の道が決まっていて、そこを通ってばかりいる。<br /><div><br /></div><div><br /></div>もちろん、効率的ではあり、物事を調べるために必要な時間は削減されている。<br />ただ、問題に対する答えしか入手していないため、自分の知識を広げることにも深めることにもなっていないのではないかという懸念が残る。<br /><div><br /></div>最近「へえ～」と感嘆したり、今までとは違う興味を覚えたりするのは、同じネット上でもフェイスブックやツイッターなど、誰かが情報として拡散してくれたことが中心になっている。それも、知識を広げるほど、自分の中で噛み砕いているのかと聞かれるとそうではなく、何となく表層を流れて行っている印象がある。<br /><div><br /></div><div><br /></div>最初に述べた雑誌の騒動買いだが、実は情報に辿り着くまでの道が単一化、最短化、直線化していることへのフラストレーションが溢れ出した形なのではないかと思っている。<br />答えを求めるためではない情報に餓えているのではないだろうか。<br /><div><br /></div>インターネットの存在により、情報の量は無限に増えた。<br />が、増えすぎると結局何を信頼すれば良いのかわからなくなり、この情報を入手するのであればこのサイトという巨大サイトが出現してきた。<br /><div><br /></div>そこに依存することが続いていたが、今、その便利さに少し<strong>疲弊感</strong>が出てきているとしたら、次はどのような流れに向かっていくのだろうか。<br /><div><br /></div><div><br /></div>何となくではあるが、電車の中吊り、店頭ＰＯＰ・・・自分の生活の中に何気なく存在しているアナログなものの中に、楽しさと発見を見出していく比重が高まっていくのかもしれないと思っている。<br />　<br />　
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<title>第19回&quot;後ろめたさ&quot; と &quot;開きなおり&quot;</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー定性調査部　ディレクター　梅津 順江（ウメヅ ユキエ）インタビューやヒアリングの現場で、調査対象者が「後ろめたさを感じる」「罪悪感にかられる」といったココロの中で起こる違和感や葛藤を吐露する場面によく出くわす。例えば、『夜中に甘いスイーツを食べちゃった』、『平日の昼間からお酒を飲んじゃった』、『震災で大変な方がいるのに、自分だけ楽しんでしまって申し訳ない』、『医者から注意されたのにタバコをやめられない』、『子供が受験なのに、パチ..</description>
<dc:subject>マーケティング・対比思考</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-04-24T23:15:58+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[

<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">定性調査部　ディレクター　梅津 順江（ウメヅ ユキエ）</div><div><br /></div>インタビューやヒアリングの現場で、調査対象者が「後ろめたさを感じる」「罪悪感にかられる」といったココロの中で起こる違和感や葛藤を吐露する場面によく出くわす。<br /><div><br /></div>例えば、『夜中に甘いスイーツを食べちゃった』、『平日の昼間からお酒を飲んじゃった』、『震災で大変な方がいるのに、自分だけ楽しんでしまって申し訳ない』、『医者から注意されたのにタバコをやめられない』、『子供が受験なのに、パチンコに通ってしまう』等々・・。<br /><div><br /></div>罪への意識のレベル感は様々であるが、まずいことをしたという自覚から良心がとがめられて、動揺したり、うろたえたりしている点で一致している。<br /><div><br /></div><div><br /></div>これらの<strong>&quot;後ろめたさ&quot;</strong>を形成要素によって、３つに分類してみる。<br /><div><br /></div><strong><u>１）<span style="white-space: pre" class="Apple-tab-span">	</span>【習慣】によって形成されたもの</u></strong><br /><br /><div>「本能的にはやりたいけれど、おおっぴらにはできない」といった類のもので、罪の意識は低い。<br />自分の内面で「やってはいけない、やらないほうがいい」という態度と「やりたい、やってしまおう」という行動との葛藤や不協和から生じるケースで、『ダイエット中の女性が深夜に食べるスイーツ』、『主婦が昼間から飲むビール』、『体に悪いと思いながらも止められないタバコ』などが、これに当てはまる。<br />習慣の多くは、後天的な価値観によって形づけられており、ライフスタイルによっても異なる。<br /><div><br /></div><strong><u><div><strong><u><br /></u></strong></div>２）<span style="white-space: pre" class="Apple-tab-span">	</span>【常識】によって形成されたもの</u></strong><br /><br /></div><div>暗黙的なルールに抵触したり、秩序に反したりするとき、周囲や世間一般の目を気にして、罪の意識を感じるケース。『被災地での過度なおしゃれ』や『主婦がパチンコに通う行為』などがこの分類に当てはまる。飲酒場面も『職場でアルコールを飲む』となると、他者の存在が入ってくるので、ここに属する。<br />また、周囲の環境や受けてきた教育の影響によって異なる、という特徴も見逃せない。<br /><div><br /></div><strong><u>３）<span style="white-space: pre" class="Apple-tab-span">	</span>【背徳】によって形成されたもの</u></strong><br /><br /></div><div>「倫理・道徳上、明らかに良くない」とされる種類のもので、『カンニング』、『浮気』、『未成年のたばこ』、『法で認められていない麻薬』など、快楽欲求に流されるケースやタブーがこの領域になる。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div>マーケティングの現場では、商品開発やコミュニケーション戦略につなげるべく、これらの生活者の<strong>&quot;後ろめたさ&quot;</strong>を読み解こう、という試みがよくされている。<br /><div><br /></div>【背徳】によって形成された罪悪感は別としても（&quot;潔白&quot;&quot;無罪の証明&quot;でしか解決策が見いだせないと思われるため）、【習慣】や【常識】によって形成された罪悪感は、<strong>&quot;開きなおり&quot;</strong>によってある程度、攻略することができるのではないか。<br /><div><br /></div>【習慣】によるものは、「やってはいけない」と「やりたい」との不協和を埋めるべく、「言い訳を探すサポート」「正当化させるための助言」をすることで、解決できる。自分の中で開き直ることができれば、後ろめたさは薄れると思われる。<br /><div><br /></div>【常識】によるものは、社会性や集団従属欲求の関与するところが大きいので、後ろめたさを払拭するのではなく、「他者からの肯定や伝達」が安心感につながると思う。身近な人から「皆、同じ」「開き直りが肝心」と共感されたり、先人や目上の人から「問題ない」と肯定されたりすれば、後ろめたさは消える。<br /><div><br /></div><strong>&quot;後ろめたさ&quot;</strong>は、コントロールすることができる。商品やコミュニケーションによって、<strong>&quot;後ろめたさ&quot;</strong>から<strong>&quot;開きなおり&quot;</strong>のきっかけづくりができれば、企業は生活者と共感やエンゲージメントさえ築けるのである。<br /><div><br /></div>後ろめたい気持ちを肯定してあげたり、開き直るきっかけをつくったりするコミュニケーションは、ジャンプしすぎると「やり過ぎ」「そうはいってもできない」「荒唐無稽」となってしまうため、バランスを保った見せ方のさじ加減は難しい。<br />しかし、ターゲットにぴったりはまれば、安心感に結びつき、態度変容をおこすことができるのである。<br />　<br />　<br /></div>
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<title>第7回～デジタルシニアへの誘導（シニア考４）</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー代表取締役社長　澁野　一彦◆ネットターゲットとしても期待できる巨大シニア市場日本人の平均寿命は86.4歳（2010年）、65歳で退職して平均寿命まで生きたとすると、残りの総ライフタイムは約20年で18万時間弱になり、その内1/2が自分の自由な時間と考えると9万時間を高齢者として生きていくことになる。一般のサラリーマンが退職するまでの総労働時間が8万時間と云われているので、現役時代に投入した時間と同じかそれ以上の時間が自由時間とし..</description>
<dc:subject>ＪＭＡマーケティングコラム</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-03-22T00:43:08+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[

<div align="right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー<br /></div><div align="right">代表取締役社長　澁野　一彦<br /></div><br /><strong>◆ネットターゲットとしても期待できる巨大シニア市場</strong><br /><hr width="100%" size="2" /><br />日本人の平均寿命は86.4歳（2010年）、65歳で退職して平均寿命まで生きたとすると、残りの総ライフタイムは約20年で18万時間弱になり、その内1/2が自分の自由な時間と考えると<u><strong>9万時間を高齢者として生きていく</strong></u>ことになる。<br /><br />一般のサラリーマンが退職するまでの総労働時間が8万時間と云われているので、現役時代に投入した時間と同じかそれ以上の時間が自由時間としてある。この膨大な時間をいかに豊かで有意義に過ごしていくか、シニアライフの生活デザインか大事になる。<br /><br />もともと高齢者は時間と資金に余裕がある人（金時持ち）が多く、物販に限らず消費者としても非常に高いレスポンスが期待できる層である。<br /><br />一方で高齢者は加齢に伴い体力が劣えていき、活動範囲が狭まり出歩くことや重いものを運ぶことに不便を感じることが多くなる。そのため出歩くことなく自宅まで重い商品を届けてくれる通販や宅配サービスのヘビーユーザーが多いのもこの層の特徴である。<br /><br />このように考えると<u><strong>高齢者層はインターネットビジネスのターゲットとしても適性が高く有望</strong></u>で　ぜひとも取り込みたい層である。<br /><br /><br /><br /><strong>◆シニア層をネットへ誘（いざな）う</strong>～高齢者の加齢特性に配慮したインターフェイスの提供<br /><hr width="100%" size="2" /><br />今まで見過ごされがちであったが、高度成長を牽引した団塊層が高齢者になり、シニアのネット利用率は急速に増加している。総務省発表のデータによると、65歳以上のインターネット利用率は57％（平成２２年）、70歳代でも39％まで達しており、この層（70歳代）に限れば前年比20％の伸びである。<br /><br />これを受け近年高齢者を対象としたWEBサイトが急増中であるが、必ずしも使い勝手の点で彼らに配慮されたものにはなっていないのは残念である。<br /><br />高齢者を対象としたWEBサイトでは高齢者の特性を理解した上でユーザビリティを考慮する必要がある。残念ながら人間は加齢するに伴い、身体の様々な器官や機能が衰えてくる。<br /><br />前回このメルマガでは高齢者の「咀嚼能力低下」について述べたが、それ以外にも加齢に従い運動機能、知覚機能、認知機能などさまざまな機能が衰えてくる。そのため今まで出来ていたことが出来なくなる、あるいはミスが増えるなど日常生活に徐々に影響を与えるようになる。<u><strong>視覚機能と認知能力の低下</strong></u>もその一つである。<br /><br /><br />例えばWEBサイトの文字が小さすぎて「最初から読む気がしなくなる」（高齢者の意見）といった声に対して、「説明の文字は大きくしたほうがいい」といった短絡的な情報から、なぜ小さいと良くないのかという根拠がよくわからず、単に文字を大きくし逆に行間が狭くなり、更に見難くなるケースもしばしば見られる。<br /><br />この場合、シニアは加齢により視認機能が低下し<u><strong>小さい文字は視認性が悪い</strong></u>というも問題である。しかし視認性を良くする為に文字を大きくするという意図を充分に理解していないと大きな文字でも行間が狭く目線が定まらない視認性の悪いデザインになってしまう。<br /><br />この場合は文字を大きくすることが大事ではなく、<u><strong>視認性を良くすることが大事</strong></u>なのである。逆に文字が小さくても、視認性がよいデザインも充分に可能である。<br /><br />ユーザーのインターフェイスの問題では、単純にデザインについて対処的な修正をすることではなく、シニアユーザーの知覚、認識行動の視点を踏まえて問題を低減することが重要になる。<br /><br /><br /><strong>◆シニアに優しいWebサイトデザイン</strong><br /><hr width="100%" size="2" /><br />シニアは加齢に伴いいろいろな原因で視力が低下する。昨年弊社で実施した60～79歳のシニアの調査では、「目のかすみ」を訴える人が32％存在。また60歳代で60～70％の人が白内障を発症すると云われている。<br /><br />眼科医のサイトで調べて見ると、白内障が進むと色が黄みがかって見えたり、視野が狭くなったりと様々な症状が生じる。特に緑色と青、また黄色と白などの判別が難しくなる。（とのことである）<br /><br />サイトデザインでも頻繁に使われている<strong><u>色の組合せ</u></strong>であるが、「緑と青」や「黄色と白」の配色はなるべく避けるほうがよいそうである。<br /><br />また当然であるが　明度の低い文字も目立たず見難くシニアには不向きであると云う。<br /><u><strong>フォントの大きさ</strong></u>についてＮＴＴデータ経営研究所は、「ネットを利用する高齢者の約半数がパソコンの文字を大きくする機能を利用している」と云っている。<br /><br />字体に関しては「太めのゴシック体や筆文字」などフォントのはっきりしているものが好まれているとのこと。視認性を考える上で使用するフォントの大きさや字体の選択は非常に大切であるようだ。<br /><br /><br /><u><strong>色の好み</strong></u>も年齢層により変わってくる。色彩研究所の調査では、団塊世代の男性は他の層に比べグリーン系を好む傾向が高く、また団塊女性は今までの高齢女性と比べて赤紫を嫌うといった特徴が見られたそうだ。<br /><br />ただ最近のおばあちゃん達のカラフルなメッシュを入れた髪を見てもわかるように、シニアだからといって地味な配色を好む訳ではなく、全体的に明度を保ち、彩度の高いメリハリのある色彩を加えることも彼女たちの嗜好の延長にあるようだ。<br /><br /><br /><u><strong>色については配慮</strong></u>も必要である。<br /><br />高齢者ドライバー向けの黄色とオレンジの紅葉マークのデザインは「枯れ葉」をイメージさせることから、高齢者に大変不評であった。以前メルマガでも書いたように<u><strong>シニア層は自分達をシニアとは思っておらず</strong></u>、「年寄りくさい」ことを良しとはしない。<u><strong>「年寄り」を意識した色使いや配色は抵抗感が強い</strong></u>ということも理解しておく必要がある。<br /><br />ユーザビリティをシニア層に特化させた&quot;シニア携帯&quot;のようなシニア向けモードの設定も考えられるが、そこはプライドの高い高齢層世代（特に団塊世代）である。「簡単モード」や「簡易版」の類の文字には拒否反応を示し、使おうとしないということにもなってしまう。見せ方の工夫は必要である。<br /><br />高齢者の機能低下の特性に合わせてハード面では種々サポートすることは大事であるが、決して<u><strong>「一般とは違う」「阻害されている」</strong></u>という感じを持たせないように配慮することを忘れてはならない。<br /><br /><br />これまでインターネット社会は、主に若者（それもITリテラシｰ高い）を中心に設計企画されてきた。そのためオーバースペックで必要以上の機能まで量産されてきたともいえる。今後は<u><strong>インターネットは高齢者も含めた全世代共通のツールであるという視点</strong></u>にたち、機能、ユーザビリティの開発を行ってほしいものである。<br /><br />続く<br />　
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<title>第2回「ゲーミフィケーション」と「リサーチ」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー企画部　ディレクター　牛堂雅文「ゲーミフィケーション」とは「ゲーミフィケーション」は日本では2011年後半～2012年初旬のバズワードであり、株式会社ゆめみ代表：深田浩嗣氏の言葉を借りると、【ゲームが持つプレイヤーを活性化させるノウハウを、ゲーム以外の領域に使うこと】となっています。「ゲーミフィケーション」が話題となったのは、単純に海外で注目されているといった背景があります。少し古い例だと位置情報を使った「Foursquare」..</description>
<dc:subject>リサーチトピックス</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-03-21T23:41:12+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[

<div align="right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー<br />企画部　ディレクター　牛堂雅文<br /></div><br /><strong>「ゲーミフィケーション」とは</strong><br /><hr width="100%" size="2" /><br />「ゲーミフィケーション」は日本では2011年後半～2012年初旬のバズワードであり、株式会社ゆめみ代表：深田浩嗣氏の言葉を借りると、<strong><font color="#3366ff">【ゲームが持つプレイヤーを活性化させるノウハウを、ゲーム以外の領域に使うこと】</font></strong>となっています。<br /><br />「ゲーミフィケーション」が話題となったのは、単純に海外で注目されているといった背景があります。少し古い例だと位置情報を使った<strong>「Foursquare」</strong>、もう少し新しい例だとWebサイト来訪にゲーム的要素を取り入れ、バッジで来訪を促進する<strong>「Badgeville」</strong>が有名なようです。<br /><br />それだけではなく、Ｗｅｂ、スマートフォンなどを通じインタラクティブなコンテンツ、アプリを提供しやすくなり、ユーザーの行動が把握、計測しやすくなった今だからこそ現実味が増したことも背景にある言えるでしょう。<br /><br />そして昨年、MROCをはじめ、マーケティングリサーチの今後を占う書籍として業界の大きな話題となった萩原雅之氏の著書<strong>「次世代マーケティングリサーチ」</strong>。そのChapter４でも、ゲームを使ったリサーチの可能性が語られていました。<br /><br /><br /><br /><strong>マーケティングリサーチでは</strong><br /><hr width="100%" size="2" /><br />通常、マーケティングリサーチは「ゲームのノウハウ」どころか、できるだけ<strong>バイアスを排除し、統制された環境</strong>で実施されるのがよいとされています。<br /><br />しかし、その結果、<strong><font color="#3366ff">冗長で実に無味乾燥な調査票</font></strong>が作成されてしまい、回答者の関心を失いやすく、脱落を招き、回収率の低下につながる悪循環を生じる結果になってしまってはいないでしょうか。<br /><br />そしてバイアス排除、統制の代償であり致し方ないとはいえ、冷静、真面目、ロジカルといった、普段とやや異なる心理状態で回答させてしまっている恐れも拭いきれません。<br /><br /><br /><br /><strong>「ゲーミフィケーション」への取り組みと不安</strong><br /><hr width="100%" size="2" /><br />では、リサーチ業界のゲーミフィケーションへの取り組みに注目してみましょう。<br />リサーチ業界で注目される海外のカンファレンス<strong>「ESOMAR Congress 2011」</strong>でも、ゲーミフィケーションを用いたリサーチの研究が発表されていたそうです。参加された方から、画面イメージとしてスノーボードで斜面を滑り、質問に対して「Yes」「No」2つのゲートを選らんで進んで行くゲーム形式の調査事例をご紹介頂きました。<br /><br />ゲーム形式の調査ということ自体物珍しく、関心を持たれた方も多いかもしれません。しかし、いざ「現在実施しているマーケティングリサーチをゲーム形式に置き換える」となると、「ちゃんとした結果が出るのだろうか」…などと途端に不安を感じられるのではないでしょうか。<br /><br />私もその一人です。<br /><br />かつて、「訪問留置調査」から「Web調査」へ切り替えるだけで「データがぶれ、過去データと比較できない」と問題になったことを考えますと、「ゲーミフィケーションへ切り替えましょう！」という提案、説得のハードルがいかに高いかは推して知るべきかもしれません。<br /><br /><br /><br /><strong>リサーチに「ゲーミフィケーション」は適用不可？</strong><br /><hr width="100%" size="2" /><br />「結局ゲーミフィケーションなんて、現実的にリサーチには使えない」…ちょっと待って下さい、それは即断しすぎです。<br /><br />要は、<strong>「むしろゲーミフィケーションを使った方が、普通のリサーチをするより適しているケース」</strong>を発見すれば良いのであり、手法への親和性の高いケースの発見がゲーミフィケーションの普及とセットになっていると考えるのが現実的でしょう。<br /><br />言い方を変えると、「ゲーミフィケーションによるリサーチの適用領域の拡大」という発想です。<br /><br />こうなると聞かれそうな「具体的にはどんな領域？」というご質問。実はある程度答えは見えているものの、実験・検証等がこれからとなるため、恐縮ながらここではお伝えできません。…なんとも申し訳ございません。<br /><br />ただ、ゲーミフィケーションの適用はまだ探索が始まったばかりですので、機会を頂けましたら、ぜひ多くの方と意見交換をさせて頂けますと幸いです。多くのアイディアが新しい可能性を生むものと信じております。<br /><br />実際にゲーム関連の方と話をさせて頂き、ゴール到達・目標達成ありきではなく、<strong><font color="#3366ff">「その場、その場を楽しんでもらう」</font></strong>という発想をされていると理解することができました。通常のビジネス発想とは異なる視点を得られ、多いに刺激になっています。<br /><br /><br />そしてより大きな視点で考えると、かつてほどの勢いはないにせよ、なんと言っても日本は「ゲーム大国」なのですから、そうそう海外に後れを取る気もしません。<br /><br />東北大震災発生後1年が経ちましたが、まだ「復興できた」と言える状態ではありません。「日本を元気にする」という意味も含め、ほんのわずかでもそういったお役に立てれば幸いです。<br />　<br />　
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<title>第7回「アクティヴ・インタビューと〈社会構築主義〉（前編）」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー企画部　　小林祐児（コバヤシ　ユウジ）「アクティヴ・インタビュー」というアイデア定性調査において、「アクティヴ・インタビュー」という考え方がある。マーケティング・リサーチというよりも、社会調査の文脈から現れたアイデアで、ジェイムズ・ホルスタインとジェイバー・グブリアムによる著『アクティヴ・インタビュー―相互行為としての社会調査』（せりか書房）によって提唱・実践されたものだ。今回と次回のエントリの目的は、このアメリカの社会学者らが..</description>
<dc:subject>社会学のすゝめ</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-03-21T22:23:29+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[

<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">企画部　　小林祐児（コバヤシ　ユウジ）</div><div style="text-align: right"><br /></div><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC.png" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC-thumbnail2.png" border="0" alt="アクティブインタビュー.png" width="182" height="255" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div style="text-align: right"><br /></div><strong>「アクティヴ・インタビュー」というアイデア</strong><br /><hr /><br />定性調査において、「アクティヴ・インタビュー」という考え方がある。<br /><div><br /></div>マーケティング・リサーチというよりも、社会調査の文脈から現れたアイデアで、ジェイムズ・ホルスタインとジェイバー・グブリアムによる著<font color="#ff0000"><strong>『アクティヴ・インタビュー―相互行為としての社会調査』</strong>（せりか書房）</font>によって提唱・実践されたものだ。<br /><div><br /></div>今回と次回のエントリの目的は、このアメリカの社会学者らが提唱する実践的アイデアの真価を、その背景にある〈社会構築主義〉という社会学固有の文脈を経由することで明らかにすることにある。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><strong>「アクティヴ・インタビュー」とは何か</strong><br /><hr /><br />ホルスタイン＝グブリアムはこの著作の中で、伝統的な既存のインタビュー方法との対比によって彼らのアイデアの輪郭を浮き上がらせようとしている。まずは、彼らの説明に従いつつ、「アクティヴ・インタビュー」なるものの概観をつかむことから始めよう。<br /><div><br /></div>ホルスタイン＝グブリアムによれば、彼らが「伝統的なアプローチ」と呼ぶ従来型のインタビュー調査は、面接相手となる対象者を、過去の経験や情報を貯め込んでいる<font color="#3366ff"><strong>「回答の容器」</strong></font>と見做してきたという。そして、伝統的なアプローチにおけるインタビュアーの役割は、そうした「容器」である対象者が貯め込んでいる意見や情報を、いかに「正確に」「そのままの形で」引き出すか、という点に集約される。<br /><div><br /></div><div><br /></div>そうした従来型のインタビューに対し、彼らの「アクティヴ・インタビュー」が強調するのは、調査の中で行われる<font color="#3366ff"><strong>インタビュアーと対象者との相互作用</strong></font>である。<br /><div><br /></div><strong>対象者は、インタビューの回答として情報を提供する際に、インタビュアーの立場や問いかけの仕方によって、自分の持っている情報を加工し、語り直し、その都度新しい形で提出する。</strong><br />そこでは、対象者から得られる「回答」は、対象者の内部から言葉によって運ばれる「伝達物」ではなく、インタビュアーの関わり方によって生じる意味の交換によって<strong><u>「構築」されるもの</u></strong>として捉えなおされることになる。【図１】【図２】<br /><div><br /></div><strong><div style="text-align: center"><strong>【図１】</strong></div></strong><div style="text-align: center">&nbsp;<a style="text-align: center" href="http://jma.up.seesaa.net/image/E4BC9DE7B5B1E79A84E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC.gif" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E4BC9DE7B5B1E79A84E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC-thumbnail2.gif" border="0" alt="伝統的インタビュー.gif" width="391" height="314" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E4BC9DE7B5B1E79A84E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BC-thumbnail2.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><strong><div style="text-align: center"><strong>【図２】</strong></div></strong><div style="text-align: center">&nbsp;<a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BCE381AEE59BB3.gif" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BCE381AEE59BB3-thumbnail2.gif" border="0" alt="アクティブインタビューの図.gif" width="375" height="282" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E382A2E382AFE38386E382A3E38396E382A4E383B3E382BFE38393E383A5E383BCE381AEE59BB3-thumbnail2.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div>　伝統的インタビューにおいてインタビュアーが配慮する「バイアスの防止」や「中立性を保つ」といった基本的なメソッドは、アクティヴ・インタビューの実践においては、重きを置かれない。インタビュアーは対象者から「回答」という伝達物を正確に取り出す透明な媒介者ではなく、対象者とともに回答を「創りだす」アクティヴなプレイヤーとして立場を改めることになる。<br /><div><br /></div><div><br /></div>より詳しいアクティヴ・インタビューの具体的方法論については後編に譲るとして、このように、従来の調査方法が<strong>「回答者の考えは、質問に先立って回答者の側にある」</strong>(西阪・川島2007;134)という暗黙の前提を持っている、という指摘は、ホルスタイン＝グブリアム以外からもなされている。日本においても、例えば西阪と川島（2007）は、いわゆる形式的な質問紙調査の前提的思想を、会話分析との実地的な対比によって浮かび上がらせる。<br /><div><br /></div><div><br /></div>さて、主体と主体の相互作用による意味の共同構築を重視するホルスタインとグブリアムの方法論的意識は、社会学においては<strong>「シンボリック相互作用論」「意味学派」</strong>と呼ばれる潮流の中に位置づけられる。だが、彼らの議論において最も意識されているのは、<font color="#ff0000">〈<strong>社会構築主義</strong> social constructionism〉</font><font size="1">※１</font>と呼ばれる学問的コンテクストである。<br /><div><br /></div>しかし、この<strong>〈社会構築主義〉</strong>という考え方は、20世紀後半以降の社会学において一大勢力として隆盛を誇ったと同時に、社会学そのものの地盤を揺るがし続けている「厄介なシロモノ」でもある。<br />その「厄介さ」にいきなり触れてしまう前に、〈社会構築主義〉がどのような主義／主張を行うものなのか、（そもそもそれは主義／主張と呼べるようなものなのか）を確認していく。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>〈社会構築主義〉の展開――「状況」から「行為」へ</strong><br /><hr /><br /><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E7A4BEE4BC9AE5958FE9A18CE381AEE6A78BE7AF89.jpg" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E7A4BEE4BC9AE5958FE9A18CE381AEE6A78BE7AF89-thumbnail2.jpg" border="0" alt="社会問題の構築.jpg" width="417" height="310" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E7A4BEE4BC9AE5958FE9A18CE381AEE6A78BE7AF89-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />社会学における〈社会構成主義〉の歴史的端緒を特定させるのは難しいが、一般的には、<font color="#ff0000"><strong>ピーター・バーガー＝トーマス・ルックマンによる『現実の社会的構成―知識社会学論考』</strong>（1966）</font>と、スペクター＝キツセによるラベリング理論の応用に求められる。<br /><div><br /></div>スペクター＝キツセは、共著<font color="#ff0000"><strong>『社会問題の構築――ラベリング理論を超えて』</strong>（1977）</font>において、逸脱状況や差別問題などのいわゆる「社会問題」についての研究において、ある「考え方の転換」を行った。<br /><div><br /></div>スペクター＝キツセは、青少年の逸脱的行動や、差別などの社会問題が「現に存在する」という状況について、その状況についての客観的な「定義」を許さない、という態度をとった。<br />客観的に存在するとされる状況があったとしても、その背後には常に、「存在する」とラベリングする（呼び表す）行為が張り付くように存在している。スペクター＝キツセは、解読するべきは、その指し示す行為のほうである、と説いた。<br /><div><br /></div>社会問題研究に対する彼らの転換とは<strong>、「状況」から、「行為」</strong>への転換である。彼らにとって社会問題とは、「ある状態が存在すると主張し、それが問題であると定義する人びとによる活動（Spector &amp; Kitsuse 1977=1990:117）」なのである。<br /><div><br /></div>この【客観的な状態の分析】から、それを【客観的であると定義する行為（考え・言論）の分析】へ、という重点の転換が、その後の社会構築主義に緩やかに共有される通奏低音となっていく。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>〈構築主義〉のアクチュアリティ</strong><br /><hr /><br />現象学の流れを組むピーター・バーガー＝トーマス・ルックマンによる代表的著作<font color="#ff0000"><strong>『現実の社会的構成―知識社会学論考』</strong></font>は、〈社会構築主義〉により広い射程を用意した。バーガー＝ルックマンは、アルフレッド・シュッツの現象学的社会学を発展させつつ、「そもそも〈現実〉という観念が社会的な相互作用によって構築されている」、というテーゼを社会学のステージに大風呂敷のように広げることに成功した。<br /><div><br /></div>こうして知れ渡ることになった〈社会構築主義〉そのものに、確固たる境界線を引くことはおおよそ困難である。すぐあとで述べるように、様々な論者が様々な立場から、社会構築主義「的」な考えをベースに多様なトピックを論じ重ねてきた。その考え方の中心にある最小公約数的なものを一言で言えば、<br /><div><br /></div><div><table border="1" cellpadding="20" width="704" height="78" bordercolor="Black"><tbody><tr><td style="text-align: center"><strong>ある事象Xは、自然的／客観的実在というよりも、社会的に構成（構築）されたものである。</strong><br /></td></tr></tbody></table></div><br />という単純な主張、もしくはアイデアとなろう。<br /><div><br /></div>人びとが、その「対象X」について、自明性（客観的に存在すると考えられている程度）を与えていればいるほど、その対象Xを覆す〈社会構築主義〉のアクチュアリティは増すことになる。疑いを持たずに「当たり前」と準拠していた社会的な前提をいきなりスコンと外されたようなショック効果、それこそが社会構築主義がもつ言論的な新奇性であり、隆盛への起爆剤であった。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><strong>社会構築主義の隆盛</strong><br /><hr /><br />こうして80年代以降、こうした「（多くの事柄は）社会的に構築されたものである」という理念を共有した社会構築主義「的」な業績は乱立することになった。『～の（歴史的）誕生』という名が冠された著作が、世界中の社会学者、文化人類学者などから雨後の筍のように現れてくることになる。<br /><div><br /></div>ここで、そうした代表的な著作を、紹介も兼ねて少しだけ列挙してみよう。<br /><div><br /></div><strong><font color="#3366ff">ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』</font></strong>は、南米における「近代国家」という社会制度（をささえる幻想）が「出版資本主義」というメディアの動向によって構築されてきた過程を描き出すことで、国家制度の自明性を揺るがし、ナショナリズム以外の議論の場でもセンセーショナルな話題を振りまいた。<br /><div><br /></div><font color="#3366ff"><strong>ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』、上野千鶴子の『近代家族の成立と終焉』</strong></font>は、フェミニズムの立場から、「男女の性差」、そしてそれに密接に関係する「家族」の社会構築性を前提に、その現在を実直に、熱っぽく未来を説いた。<br /><div><br /></div><strong><font color="#3366ff">ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』『知の考古学』『性の歴史』</font></strong>などの著作で、「規範」「性」「近代」「主体」といった近代社会の基礎となる観念が歴史的にどのように現れてきたかを、「言説分析」という歴史学的な方法論を駆使して饒舌に語った。フーコーは社会学者というよりも哲学者・思想家として有名だが、その著作にある構築主義的な発想と方法論は、社会学における〈社会構築主義〉の隆盛に大きく寄与した。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>〈構築主義〉の最も大きな仮想敵</strong>は、「ある実在は、人びとがそれに与える認識や言語に先立って、ある〈本質〉を有している」という<strong>〈本質主義〉</strong>になる。社会構築主義者らは、ときに強く政治的な批判的精神を持って、この〈本質主義〉を脱-構築de-constructionすることに尽力してきた。<br /><div><br /></div>歴史的な社会動向を追うことで、「対象X」が以下に構築されてきたかを解明することは、「対象X」の可変性を担保することにもなる。これらの著作は、Xの項に「性差」「国家」「家族」「主体」といった高い自明性を与えられてきた概念を挿入し、その自明性を打ち崩しつつ活発な議論を生み出すと同時に、〈本質主義〉的な発想が生む硬直的な現実へのオルタナティブを提供するという、政治的・実践的な役割も担ってきた。<br /><div><br /></div><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E79BA3E78D84E381AEE8AA95E7949F.jpg" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E79BA3E78D84E381AEE8AA95E7949F-thumbnail2.jpg" border="0" alt="監獄の誕生.jpg" width="311" height="224" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E79BA3E78D84E381AEE8AA95E7949F-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E8BF91E4BBA3E5AEB6E6978FE381AEE68890E7AB8BE381A8E7B582E78489.jpg" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E8BF91E4BBA3E5AEB6E6978FE381AEE68890E7AB8BE381A8E7B582E78489-thumbnail2.jpg" border="0" alt="近代家族の成立と終焉.jpg" width="310" height="225" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E8BF91E4BBA3E5AEB6E6978FE381AEE68890E7AB8BE381A8E7B582E78489-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div><div><br /></div>ここまで、アクティヴ・インタビューのアイデアを皮切りに、それが依拠する〈社会構築主義〉のコンテクスト、その隆盛までを（極めて荒っぽく）紹介した。<br /><div><br /></div>しかしその後の〈社会構築主義〉は、その内部に、論理上の、ひいては社会学上の解き難いアポリア（難問）の存在を指摘されるようになる。その理論的な困難がどんなものか、そして、その困難と「アクティヴ・インタビュー」という実践的アイデアとの間に橋渡しを始めようとするところで、紙幅の尽きるところとなった。<div><br /><hr /><br /><font size="1">【脚注】<br /><font color="#999999">※１　&quot;constructionism&quot;を「構成」と和訳するか「構築」とするかには活発な議論がある。カントからの流れを汲む哲学的議論の延長線にあるバーガー＝ルックマンの著作では、「構成」と訳され、スペクター＝キツセから「構築」という訳語が定着してきたが、詳しくは下に上げた参考文献を当たられたい。</font></font></div><div><font size="1"><br /></font></div><div><font size="1"><br />【参考文献】<br />M.Spector and J.I.Kitsuse, 1977, &quot;Constructing Social Problems&quot;（＝1990，『社会問題の構築　ラベリング理論をこえて』マルジュ社1990<br />平英美・中川伸俊編、2006『新版　構築主義の社会学』世界思想社<br />上野千鶴子編、2001『構築主義とは何か』勁草書房<br />赤川学、2006『構築主義を再構築する』勁草書房<br />西阪 仰・川島理恵、2007、「曖昧さのない質問を行うこと：相互行為のなかの情報収集」田中耕一・荻野昌弘編『社会調査と権力―&quot;社会的なもの&quot;の危機と社会学』世界思想社</font></div><div><font size="1"><br /></font></div><font size="1">　</font>
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<title>第18回「納得買いしたくなる店舗</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー定性調査部　ディレクター　インタビュアー　吉田　聖美長らく改装中だった、近所のスーパーが新装オープンした。テレビで陳列や取扱商品の工夫が紹介されていたこともあり、店頭観察に行ってみた。天井までの仕切りがないフロアは、壁・床が白基調なこともあり、とても広く見えた。高齢者をターゲットとして想定した店舗ということもあり、商品棚は一番上の段であってもさほど高さがなく、私の身長でも手が届きやすい。プライスカードは通常よりも大きな文字サイズ..</description>
<dc:subject>リサーチャーのつぶやき</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-03-21T21:50:28+09:00</dc:date>
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<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">定性調査部　ディレクター　インタビュアー　吉田　聖美</div><div><br /></div>長らく改装中だった、近所のスーパーが新装オープンした。テレビで陳列や取扱商品の工夫が紹介されていたこともあり、店頭観察に行ってみた。<br /><div><br /></div>天井までの仕切りがないフロアは、壁・床が白基調なこともあり、とても広く見えた。<br />高齢者をターゲットとして想定した店舗ということもあり、商品棚は一番上の段であってもさほど高さがなく、私の身長でも手が届きやすい。<br /><div><br /></div>プライスカードは通常よりも大きな文字サイズで印刷がされている。<br />考えてみれば、プライスカードで確認をしたいものは、価格だけで他の記載はいらないので、カードの枠を最大限に活用するともう少し文字って大きく出来たのよね、ということを実感。<br /><div><br /></div>・・・エスカレーターの速度は、高齢者向けではなく、普通の速度でした（おばあちゃんの原宿、巣鴨のスーパーはエスカレーターの速度が遅いです）。<br /><div><br /></div><div><br /></div>高齢者、一人暮らしをターゲットとした戦略は、商品の品揃えからも見て取れる。食べきりで持ち帰りの負担も少ない２合サイズのお米が何種類も並んでいたり（食べ比べとかしても楽しそう）、お弁当やお惣菜も一人用の食べきりサイズ。ご飯系とおかず系を自由に組み合わせてお弁当とすることも出来る仕組みになっていた。<br /><div><br /></div><div><br /></div>これも高齢者を意識してだと思うが、減塩商品を揃えた棚などもあった。<br />減塩商品棚には、しょうゆ、みそ、塩、などメーカーもカテゴリーも混在した商品が、減塩というテーマの元に並んでおり、減塩に関心が高い人であれば、このコーナーに来ただけで調味料を揃えることが出来る仕組みになっていた。<br />しょうゆを減塩にするなら、みそも減塩にした方が良いよね、など納得した買物が出来そうだ。<br /><div><br /></div>反面、通常のしょうゆを買いに来たが、やっぱり体のことを考えて減塩にしようかな、といった商品選択は成り立ちにくい。<br />また、この店舗には減塩コーナーがある、と消費者に知らしめる工夫も必要となる。棚の側面と上部には「減塩コーナー」と記載されたボートが付けられていたが、果たしてこのお店を利用している高齢者のどの程度の人が認識しているかは疑問が残るところ。今後の課題かもしれない。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div>同様の売り場の作り方は、別の階のペット用品コーナーでも行われていた（ネコ飼いなので、ネコの売り場しか見ていませんが・・・）。下部尿路、毛玉吐き、などネコちゃんの悩み別や高齢猫用という括りで、ブランド、メーカー問わずキャットフードが並んでいた。<br /><div><br /></div>通常の売り場の場合、キャットフードは形状（ドライ、ウェット）で大きく分かれ、その中でブランドごとに分かれて並べられている。そして、そのブランドの中に「高齢猫用」「毛玉ケア用」などが置かれている。<br /><div><br /></div>もちろん、贔屓のブランドがある人は、ブランドごとに並んでいる方が選びやすい。が、ブランドに特にこだわりがなく、自分のネコちゃんに合っているフードを選びたいという人であれば、この並べ方はありがたいのではないだろうか。普段はこっちを買っているが、同じ効果があるならこっちにしようかな、と納得した上での銘柄スイッチもあり得そうだ。<br /><div><br /></div><div><br /></div>食品売り場に戻って・・・カテゴリーを越えた陳列はアルコールに関しても見られた。<br />ワインのビンが至るところに並んでいることに気付く。<br /><div><br /></div>もちろん、お酒売り場にはずらっと並んでいるのだが、精肉売り場に赤ワイン、鮮魚売り場に白ワイン、パスタ売り場でパスタ麺とパスタソースとワイン、・・・（ワイン好き、というか飲兵衛なのがバレますが）。<br />これもお魚には白ワインよね～など、納得した上で衝動買いが出来そう。<br /><div><br /></div>弁当、惣菜売り場の壁には「お弁当と一緒にどうぞ」の言葉と共にミニサイズのカップ麺が吊り下げ陳列されていた。<br />小さいサイズのものがずらっと整列している図は可愛い。やっぱり衝動的に欲しくなってしまいそう。<br /><div><br /></div><div><br /></div>お店側のメッセージ（これと一緒にこれを試して）がわかりやすい売り場は<strong>納得した上での衝動買いが生じやすい</strong>、ということを改めて感じた。<br />衝動買いが生じやすい売り場は、気付きがあり、見ていてもワクワクする。<br />オープンしたてということもあり、今はまだ人でごった返していて、ちょっと敬遠している部分もあるが、落ち着いたらもっと色々観察して、メインスーパーとして利用していこうと思っている。<br /><div><br /></div>
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<item rdf:about="http://blog.jma-net.jp/article/259224130.html">
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<title>第18回&quot;自己表出&quot;と&quot;指示表出&quot;</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー定性調査部　ディレクター　梅津 順江（ウメヅ ユキエ）思想家の吉本隆明さんが、３月１６日に亡くなられた。娘のよしもとばななにはなじみがあるが、隆明さんには「ばななさんのパパだったんだ」という認識しかなかった。吉本隆明は社会主義の影響が強かった６０年代に大衆の欲望を肯定する独自の思想を構築したり、８０年代には当時マイナーだった漫画などのサブカルチャーを支持したり、戦後の若い世代や社会に大きな影響を与えた先駆的な思想の持ち主であった..</description>
<dc:subject>マーケティング・対比思考</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-03-21T21:40:23+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[

<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">定性調査部　ディレクター　梅津 順江（ウメヅ ユキエ）</div><div><br /></div>思想家の吉本隆明さんが、３月１６日に亡くなられた。<br /><div><br /></div>娘の<strong>よしもとばなな</strong>にはなじみがあるが、隆明さんには「ばななさんのパパだったんだ」という認識しかなかった。<br /><div><br /></div>吉本隆明は社会主義の影響が強かった６０年代に大衆の欲望を肯定する独自の思想を構築したり、８０年代には当時マイナーだった漫画などのサブカルチャーを支持したり、戦後の若い世代や社会に大きな影響を与えた先駆的な思想の持ち主であったという。<br />膨大な数の著書も残されており、その一つに<strong>『言語にとって美とはなにか』</strong>がある。<br /><div><br /></div>この主著において、彼は「言語はすべて&quot;<strong>自己表出</strong>&quot;と&quot;<strong>指示表出</strong>&quot;にわけられる」と語っている。<br />言語には、二重性や二面性があると提示。「独りで語ったり、感動したりするときの表現は&quot;<strong>自己表出</strong>&quot;であり、他人とのやりとりや日常会話、外に向けた伝達や説明となれば&quot;<strong>指示表出</strong>&quot;である。」という。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div>言語にはそれぞれ次元があって、相手を意識して生まれたコミュニケーションを前提とした言語は、吉本隆明の言うところの&quot;指示表出&quot;にすぎず、それよりさらに本質に近いところに存在している&quot;自己表出&quot;を意味するものではない。<br />木に例えると、根っこや幹に相当する部分は、むしろ&quot;自己表出&quot;の部分で、究極の&quot;自己表出&quot;は「沈黙」である。<br /><div><br /></div>その文脈からみると、Twitterやブログは無防備であり、無意識のホンネ部分も多く出やすい。究極の&quot;自己表出&quot;たる「沈黙」に近い存在といえるため、あれこれ想定されて化粧をほどこした言語よりも、はるかに面白い。<br /><div><br /></div>一方、コミュニケーションを前提とした&quot;指示表出&quot;は、それだけ意識され化粧され、加工がほどこされており本質から遠い。しかし、「いわれてみれば」「気づかなかったけど、そういえば・・」「そういう考えもある」という気づきや発見を得ることができる。<br />オンラインにおける「2ちゃんねる」や掲示板のように外に向けた表現なので、例えると枝や葉にあたり、それが優れた演出によるストーリーとなれば、花や実になる。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div>ＭＲＯＣ（Market Research Online Communities）でも、独り言のように無邪気につぶやけたり、一日をじっくり振り返って思いを綴ったりできる場と、メンバー間で一つのテーマを議論したり、投票したりするコミュニティが分かれている。<br />ツイート機能やブログ機能はまさしく言語の&quot;自己表出&quot;であり、タスク機能やコミュニティの場は&quot;指示表出&quot;にあたるのではないか。<br /><div><br /></div>ＭＲＯＣでは自分の内面（ホンネ）を吐露したり、自分の生活や買い物行動を表現したり、日常的にメンバーの意見や刺激を受けて気づきを得たり、自分の考えを伝えたり、が一つのプラットフォーム内でできる。そして、それらの内的思考や行動、外的刺激が行き来する場なので、展開に及びやすいというポテンシャルもある。<br /><div><br /></div><div><br /></div>隆明さんの著書<strong>『言語にとって美とはなにか』</strong>に出会い、また一つＭＲＯＣに次元の違う有意性がある気がしてきた。<br />依然として、「対面ではないので（表情・目線・しぐさなど）非言語の情報や変化が見えない」というデメリットは残るが、新しい言語の表出形態として面白いと思える視点が増えた。要は使い方次第だと思う。<br /><div><br /></div>ホンネや気づき・発見を得たり、消費者を理解したりするのに、ＭＲＯＣがなし得る可能性は大きい。<br /><div><br /></div><div><br /></div>吉本隆明さんのご冥福をお祈り申し上げます。<br />　
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<item rdf:about="http://blog.jma-net.jp/article/251275557.html">
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<title>第6回「エイジレスシニアの攻略法(3)：高齢者の「食」の生態系」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー代表取締役社長　澁野　一彦◆好機到来？～団塊世代が高齢者マーケットへ仲間入り！2012年からシニア世代を取り巻く環境に大きく変化が起こりそうである。ついに約800万人いると言われる団塊世代が「65歳」からの高齢者の仲間入りをする。かつては、「2007年問題」として「60歳」を迎える団塊世代の一斉退職による労働力の減少が懸念されたが、この時は多くの企業が何らかの形で彼らを継続雇用したため大きな問題に至らず、またサービス業界などが巨..</description>
<dc:subject>ＪＭＡマーケティングコラム</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-02-08T22:56:08+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[

<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">代表取締役社長　澁野　一彦</div><div><br /></div><strong>◆好機到来？～団塊世代が高齢者マーケットへ仲間入り！</strong><br /><hr /><br />2012年からシニア世代を取り巻く環境に大きく変化が起こりそうである。<br />ついに約800万人いると言われる団塊世代が「65歳」からの高齢者の仲間入りをする。<br /><div><br /></div>かつては、「2007年問題」として「60歳」を迎える団塊世代の一斉退職による労働力の減少が懸念されたが、この時は多くの企業が何らかの形で彼らを継続雇用したため大きな問題に至らず、またサービス業界などが巨大な&quot;金時持ち&quot;マーケットの誕生と喧伝したが、やや期待外れに終わった。<br /><div><br /></div>しかし、今回は（2012年から）、団塊世代が年金を受給できる年齢（６５才）に達することから、引き続き継続労働する可能性は低く、2007年当時とは様相が異なってくる。<br /><div><br /></div>団塊世代の特性を見ると、世帯主が60歳以上の世帯の1/3で現在貯蓄高が２,５００万円以上となっていることが明らかになっており（2010年「家計調査」より）、この世代は他の世代に比べて、また今までの高齢者世代に比べても経済的に恵まれている世帯が多いという結果であった。<br /><div><br /></div>こう考えていくと、<u>高齢者マーケットは&quot;金時待ち&quot;の消費市場として今後飛躍的に拡大する可能性を有している</u>と言えよう。<br /><div><br /></div>実際業種を問わず、多くの企業がこの巨大な高齢者世代をターゲットにした商品やサービスの開発に注力し始めている。その内容は多種多様で多岐にわたるが、今回は、かつての&quot;外食族&quot;の走りであり「食」への関心が高い団塊世代が牽引する<u>今後の高齢者世代の「健康で豊かな食生活」の実現にフォーカス</u>して考えてみる。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>◆高齢者世代のための「食」の生態系</strong><br /><hr /><br /><strong>～健康・長寿を担保する味覚を味わう機能</strong><br /><strong>～</strong>&nbsp;<br />日本は世界一の長寿国。厚労省の統計を見ると、他人の介護を受けず生活できる期間である健康寿命が76歳。女性の平均寿命が86.4歳（2010年）であることを考えると、高齢者が自立して生活できる期間は約10年で、それ以降の10年は他の人の何らかの助けをかりて過ごす期間となる。<br /><div><br /></div>ボリュームが大きく今後消費のけん引役としても期待する団塊シニアが、できるだけ介護を受けず&quot;健康な金時持ち&quot;として活動できる時間を持つためには、彼らの「健康で豊かな食生活」の実現が重要なファクターになる。<br /><div><br /></div>「健康で豊かな食生活」を送るためには、好きなものが食べられ、食事が美味しく楽しいものでなくてはならない。そのためには、味覚や嗅覚や触感など美味しさをきちんと味わう五感の機能が重要である。<br /><div><br /></div>しかし、誰でもある年齢を超えると、加齢に伴って身体の器官や機能が衰えてくる。とくに歯の喪失による咀嚼能力の衰退は、「健康で豊かな食生活」の実現に大きな影響を及ぼす。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>～高齢者にとっての「口から食べる」ことの意味～</strong><br />白土三平の「カムイ伝」の中で老オオカミが若いオオカミとの戦いの中で牙（歯）を失い、自ら死を覚悟して窟の中で息絶えていくというシーンが描かれていた。<br />牙に関わらず、本来野生動物にとって、歯が抜けて食物を噛むことができなくなると寿命が尽きるというのが自然の理であった。<br /><div><br /></div>幸いにも人間は歯が抜けても生きていくことができる。義歯を入れれば再びモノをかむことが出来るし、食べやすく加工された流動食もある。また口から食べることができなくなった場合でも、チューブで必要な栄養素を直接体に送り込むこともできる。<br /><div><br /></div>しかし「食する」ということは、単にエネルギーや栄養を補給するためだけではなく、香りや味わい、歯ごたえ、舌触りなどの食感を楽しむ、美味しさを楽しむという喜びを人に与えてくれる。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>「人間は死ぬまで食べ続ける生き物です。最後まで自分の口から食べられるように守ることは、人の尊厳を守ることです」</strong>（大久保満男　日本歯科医師会会長）<br /><div><br /></div>口で食べる行為は、脳をはじめいろいろな身体器官を刺激し活性化するものであり、生きているという喜びを実感させてくれる行為である。だからこそ、口から食べることを重要視し、上手に、かつ美味しい食事ができるサポートをする必要がある。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>～咀嚼力を鍛え豊かな食の提案を</strong><br /><strong>～</strong>&nbsp;<br />人間は高齢になると、歯が抜け始め、咀嚼能力が減少する。成人は上下28本の歯があるが、前期高齢者では平均本数はその半分になり、75歳以上の後期高齢者では平均約１０本弱になるという統計がある。（厚労省「歯科疾患実態調査」より）<br /><div><br /></div>東京老人総合研究所では、健康寿命、健康余命を伸ばすポンイトで最も重要なのは「咀嚼力の低下を防ぐ」ことであると言っている。<br /><div><br /></div>逆にいえばよく噛むこと自体が、咀嚼力の低下を防ぎ、老化を防止するという効果がある。またよく噛むことは、唾液の分泌を促し消化を助ける。脳の働きを活発化し、ボケ予防にも効果もある。<br />また、口を動かして美味しいと思って食べることで脳を刺激し、食べる喜びが増幅される。<br /><div><br /></div>介護の現場では、<u>高齢者向けの食品は、歯応えや、舌触り、喉越しなどテクスチャーが重要な要素</u>といわれている。テクスチャーは、美味しさだけでなく、食べやすさにも関係してくるからである。<br /><div><br /></div><u>たとえ高齢者であっても、形のある素材、繊維の多いもの、ある程度歯応え、噛み応えのあるものなどを食事メニューに加え、咀嚼力を鍛えたい</u>ものである。<br /><div><br /></div><div><br /></div>前回メルマガで　「シニアは自分達をシニアと思っていない」と書いたが、団塊世代も自分達を高齢者と捉えていない。しかしながら彼らの肉体にも、（考えたくないと思うが）確実に加齢による衰えが忍び寄る。<br /><div><br /></div>新たな高齢者層が趣味や旅行など元気に行動できるようにサポートする意味でも、まず<u>「人間としての尊厳を損なわない食行動の継続」</u>による「健康で豊かな食生活」の実現が不可欠であるといえる。<br /><div><br /></div>一足先に高齢化社会に突入した日本。世界に先駆けて「健全な高齢化社会」を創造するためには　「人間の生態・生理に根ざした高齢者の食生活」の研究・洞察が必要になってくる。<br /><div><br /></div>　
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<title>その７「ハイブリッドリサーチャー」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー企画部　牛堂雅文ハイブリッドリサーチャー先日、リサーチャーの勉強会（ＪＭＲＸ勉強会）で海外のカンファレンス「Qualitative Online 360°」の参加報告をお聞きする機会がありました。その中でキーワードとなっていたのが、「ハイブリッドリサーチャー」という耳慣れない言葉です。「ハイブリッドリサーチャー」とは、リサーチャーがある一つの手法で調査を完結するのではなく、　　「定性調査」と「定量調査」、　　「オンライン調査」と..</description>
<dc:subject>リサーチ道場</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-02-08T22:42:23+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[

<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">企画部　牛堂雅文</div><div><br /></div><strong>ハイブリッドリサーチャー</strong><br /><hr /><div><br /></div>先日、リサーチャーの勉強会（ＪＭＲＸ勉強会）で海外のカンファレンス「Qualitative Online 360°」の参加報告をお聞きする機会がありました。その中でキーワードとなっていたのが、<strong>「ハイブリッドリサーチャー」</strong>という耳慣れない言葉です。<br /><div><br /></div>「ハイブリッドリサーチャー」とは、リサーチャーがある一つの手法で調査を完結するのではなく、<br />　　「定性調査」と「定量調査」、<br />　　「オンライン調査」と「オフライン調査」<br />　　「モバイルの活用」<br />　　「伝統的リサーチ会社」と「ＩＴ系企業など他の業界」の得意分野の融合、<br />…といった各手法の得意分野の組み合わせにより、課題により深くアプローチしようというリサーチャー、リサーチのあり方のことを指しています。<br /><div><br /></div>そういう言い方をすると、「以前からリサーチャーは様々な調査手法の組み合わせを実施しており、<strong>全く目新しくない</strong>。」…といった感想を持たれるかもしれません。<br /><div><br /></div>「グループインタビューで得られた気づきを、定量調査で検証する」といった定番のハイブリッドはかなり以前から用いられており、<strong>「今さらハイブリッドと名乗るな」</strong>というお叱りの声もありそうです。<br />（そういえば、しばらく前にエスノグラフィーが流行ったときも、現場に出向く従来型の手法と同じである…と同様な議論があったように記憶しています。）<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>背景の考察</strong><br /><hr /><br />ただ、現在ハイブリッドリサーチャー／リサーチが叫ばれることの背景にも着目すべきかと思います。<br /><div><br /></div>まず、一つはＷｅｂリサーチ、ＭＲＯＣといったオンラインの手法、または携帯などＩＴツールを駆使したリサーチ手法が増えるのに従い、「それぞれの手法の特性を把握し、使いこなす必要性が高まってきている」点です。<br /><div><br /></div>リサーチから拡張して、企業のマーケティング活動に視点を広げても同じことが言えます。ソーシャルメディアを筆頭にＷｅｂ関連の新しいコミュニケーション手段が増えたため、ＴＶ、新聞、雑誌といった既存のコミュニケーション手段も含めて特性を知り、適切に組み合わせて使っていくことが求められています。これは時代の潮流と言えそうです。<br /><div><br /></div><div><br /></div>二つ目にマーケティング・リサーチ会社が大規模化／合理化して社内分業が進んだり、リサーチ会社によっては手法に特化したことにより、「特定の手法に偏った経験を持つリサーチャーが増えてしまった」点です。<br /><div><br /></div>これにはリサーチ会社の社内教育・キャリアパスの問題、クライアント企業との関わり方の問題（特定手法が多いクライアント企業の専任となる）、早さ・安さとともに企業の成長速度を重視した結果など、色々な要因が潜んでいそうです。<br /><div><br /></div><div><br /></div>三つ目として、海外では「普通にリサーチをやってもインサイトを探れない」と言う問題意識が感じられているようで、その解決法としてハイブリッドリサーチが注目されているようです。<br /><div><br /></div>「インサイトとは何か？」というところも人による解釈の幅が大きいのですが、なにより課題に対し色々な手法・アプローチを組み合わせるのはマーケティング・リサーチにおいて当たり前の話です。「何を今さら…」というご感想は、長くマーケティング・リサーチに携わっている多くの方が感じられることかもしれません。<br /><div><br /></div>ただ、元が海外の話ですので、言葉のニュアンスが掴み切れていない恐れもあり、「何を今さら」…と速断しない方がいいのかもしれません。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>ハイブリッドの事例</strong><br /><hr /><br />では、話を戻し、手法などをハイブリッドしたリサーチが活用される具体的なケースを考えていきましょう。（以降、日本での話が中心となります。）<br /><div><br /></div><strong>（１）「探索的定性調査＋検証的定量調査」</strong><br />まずグループインタビューやエスノグラフィーなど定性調査で探索的なアプローチを行い、定量調査で得られた発見を量的に検証するという組み合わせ方が最もメジャーなのではないでしょうか。<br /><div><br /></div>お互いの長所が活かせるため、最も活用の機会が多い組み合わせではないかと思います。ただ、定性調査での発見を、定量調査の質問文へ落とす部分がキーとなりますので、ワーディングの妙が問われます。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>（２）「ＨＵＴ＋ＭＲＯＣ」</strong><br />また、最近ではリアル調査のＨＵＴ（ホームユーステスト）とオンラインのＭＲＯＣを組み合わせるのも相性が良いと言われており、弊社でも実施しています。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>（３）「日記調査＋デプス／グルイン」</strong><br />日記調査と、デプスインタビューやグループインタビューの組み合わせも広く用いられており、淡々とつけて頂いた日々の記録と、そこからの深掘りで普段の生活や価値観が生き生きと見えてきます。この日記調査部分に携帯電話、ＰＣなどの機器を使う方法も試されたことがあるのではないでしょうか。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>（４）「専門家ヒアリング＋消費者調査」</strong><br />消費者／ユーザー以外の第三者の意見が重要になるケースでは、専門家に対するヒアリングと、消費者／購買者に対するリサーチという、調査対象に関してのハイブリッドの例も見受けられます。対象となる専門家としては、先端の研究をされている方や、流通関係者といった消費者以外のステークホルダーが挙げられます。<br /><div><br /></div>私自身も、「流通」と、「消費者」の両方を対象に調査を実施した例があります。<br />Ｗｅｂで口コミ情報に接しやすく、オンライン購入もできる昨今では、店頭で店員と話をしつつ購買するケースは減っているのかもしれませんが、商材によっては依然として店頭でのアドバイスが大きな影響力をもっています。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>（５）「観察調査＋インタビュー」</strong><br />観察調査は通常のインタビュー等のリサーチではアプローチが難しいニーズ探索時に用いられますが、ただ行動観察をするだけで終わらず、観察後に行動からの考察を踏まえたインタビューをすることで理解が深まります。<br /><div><br /></div>昨今個人情報保護関連のハードルは上昇したものの、動画記録に関しては記録ツールがデジタル化を終え、小型化・低価格化し、利用のハードルが低下しているのは追い風と言えそうです。まだリサーチでの利用例はあまり聞きませんが、携帯電話には動画撮影機能やＧＰＳが標準的に実装されています。<br /><div><br /></div><hr /><div><br /></div>前述のように、「ハイブリッドリサーチャー」という名前を聞くはるか前から、このような組み合わせを実施されてきた方が多いと思います。一方で、ＭＲＯＣなど新手法、ＩＴ機器の普及により、今までにない新しい組み合わせが生まれはじめているのも事実です。<br /><div><br /></div>ここで5つの組み合わせ例をご紹介しましたが、新しい手法か、古い手法かというところが重要なわけではありません。そしてなによりツールである手法に踊らされる必要性はありません。<br /><div><br /></div>しかし、新しい手法は課題解決に適した<strong>優れた組み合わせを生む可能性</strong>も含んでいます。これらのハイブリッドの例を参考とし、課題解決のためにどういった組み合わせが有効そうなのか再度検討してみるのも意味のあることではないでしょうか。<br /><div><br /></div>　
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<title>第6回「ソーシャルメディアは〈社会〉を変えるのか ―情報社会論の知識社会学（後編）」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシーフィールドワーク部　　小林祐児（コバヤシ　ユウジ）「ソーシャルメディアは社会を変えるのか。」前回のエントリの冒頭において、近年世間を賑わすこのテーマを、「新たな情報技術が登場するたび、それが『社会を変える』と言われ続けるのはなぜなのか」というより一般的なトピックへと変換した。Facebookやtwitterに代表されるソーシャルメディアは、世界中の人々のコミュニケーションを変え、人々の関係や組織のあり方、ひいては〈社会〉の総体を..</description>
<dc:subject>社会学のすゝめ</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-02-08T21:25:10+09:00</dc:date>
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<div><br /></div><div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー<br /><div style="text-align: right">フィールドワーク部　　小林祐児（コバヤシ　ユウジ）</div></div><div><br /></div>「ソーシャルメディアは社会を変えるのか。」<br /><div><br /></div><a href="http://blog.jma-net.jp/article/244452594.html">前回</a>のエントリの冒頭において、近年世間を賑わすこのテーマを、「新たな情報技術が登場するたび、それが『社会を変える』と言われ続けるのはなぜなのか」というより一般的なトピックへと変換した。<br /><div><br /></div>Facebookやtwitterに代表されるソーシャルメディアは、世界中の人々のコミュニケーションを変え、人々の関係や組織のあり方、ひいては〈社会〉の総体を変えていくかのように語られている。しかし、それらの語り口は、この半世紀の間、テレビ・スパコン・携帯・パソコン・インターネットなど、メディアを中心としたあらゆる情報技術の隆盛時に現れては消えていった言葉たちと全く同型のものであった。<br /><div><br /></div>「情報化社会」なる大げさな表現こそ廃れた感があるものの、情報技術と社会を語る声の中には、「社会変革」への漠然とした、ただ確固としてある夢が大なり小なり混じり合う。<br /><div><br /></div>そのように繰り返される「メディアが社会を変える」の論理について、前回、次の二点を指摘した。<div><br /><div><table border="1" cellpadding="20" width="704" height="108" bordercolor="Black"><tbody><tr><td><br />Ⅰ．その論理の骨子にあるのは、<strong>社会を情報技術のアナロジーで語ることによって「社会の不透明さ」を「技術の明確さ」で埋め合わせる</strong>、という構造であり、<br /><div><br /></div>Ⅱ．それは繰り返し現れてくるのは、<strong>「技術発展による進歩」という近代産業社会そのものが持つ性質</strong>によるものである。<br /><div><br /></div></td></tr></tbody></table><br /></div>そして前回説明を加えたのは、このⅠの点についてであった。<br /><div><br /></div>そこでは、<br /><strong>(1)「大型計算機」「システム」「ネットワーク」などの無理のある【技術】のアナロジーが現実の【社会】に無理やり当てはめられつつ、<br />(2)その社会に重ね合わされた【技術】の側が変化すると同時に、【社会】の側も変化する、という飛躍的論理が繰り返されていた。<br /></strong><div><br /></div>そしてその背景に、「曖昧で複雑な社会の姿を、明確で目に見える技術の比喩によって理解した気になりたい」というこれまた〈社会的な〉願望を指摘した。<br /><div><br /></div>本エントリでは、Ⅱの論点について詳しく見ていくことにしよう。そこでは、Ⅰのトピックよりもさらに歴史的で、より根本的な「社会」の姿が垣間見られることになる。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><strong>近代産業社会とは何か</strong><br /><hr /><br />Ⅱにおいて焦点となるのは<strong>「近代産業社会」</strong>のあり方についてだが、それについて説明を施す前にまず、もっと基本的な問いを立てるところから考えてみたい。<br /><div><br /></div>それは、経済において、<strong><u>「〈利潤〉はいかに発生するか」</u></strong>という問いである。ここで言う利潤とはいわゆる「儲け」のことだとざっくり考えてもいい。企業もそれに属する人々も、皆この「儲け」を目指して日々活動していることは論を俟たない。この単純な問いを出発点として、産業資本主義社会の原理を明らかにしていく。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>〈利潤〉を生む差異</strong><br /><hr /><br />さて、普段我々が行なっている経済活動の基本は<strong>「等価交換」</strong>にある。このことから確認しよう。<br /><div><br /></div><table border="1" cellpadding="20" width="704" height="108" bordercolor="Black"><tbody><tr><td><br />例えば食パン一斤を200円で買うとする。当然のことだがそれは、その食パン一斤の価値が200円分の貨幣の価値と等価であることを前提としている。でなければ売る側はその食パンを譲らないだろうし、買う側も200円を渡すことはない。<div>お互いにそこに等価な価値を見出しているからこそこの食パンの売り買い＝交換は成立する。ここではこの交換を等価交換と呼ぶ。<br /></div><div><br /></div></td></tr></tbody></table><br />しかしこの等価交換は、経済全体にとって利潤（＝儲け）を生み出さない。人々が価値の等しいものをいくら交換しあっても、そこからは元の価値を超える価値が生まれることはないように感じられる。では、儲けを目指す経済活動はどのように行われているのか。<br /><div><br /></div>この等価交換と資本主義が織り成す不思議な関係について、シェークスピアによる戯曲「ヴェニスの商人」を素材として巧妙かつ平素に説いた岩井（1985）の論をここで参照しよう。<br /><div><br /></div>等価交換の繰り返しによる一見無駄にも見えるやり取りから一歩進んで、利潤を発生させるための鍵は、岩井によれば、「<strong>ふたつの異なる価値体系の狭間</strong>（岩井1985=1992,58）」にある。<br /><div><br /></div>価値についての二つの異なる基準があり、それらを行き来することができれば、そのある一方の基準で安いものを買い、他方の基準で高いものを売ることで、そこに〈利潤〉は産み落とされる。等価交換が支配する無常な循環は、この「他方」と「一方」の間隙から突破することができるはずだ。<br /><div><br /></div>岩井は、『ヴェニスの商人』におけるキリスト教信者のアントーニオとユダヤ人のシャイロックが属する異なる共同体のもつ価値基準を、その「一方」と「他方」に見立てて説明したのちに、この価値体系の差異を宿す「狭間」となる具体的な舞台を、歴史的な三段階に分けて説明している<font size="1">ⅰ)</font> 。（岩井1985=1992,79）<br /><div><br /></div><div><br /></div>◇<strong>まず、有史以来の</strong><font color="#ff0000"><strong>【商業資本主義】</strong></font>の段階。</div><div><br />ここでの主な経済活動は、距離が離れた地域同士の交易、つまりそれぞれの場所に根付いている異なる価値体系の間のモノのやり取りである。古代ローマの時代から人は、船や馬などの交通手段を用いて、物理的に乖離した二つの価値体系の差異を行き来する（媒介する）ことによって利潤を発生させてきた。この段階における「他方」と「一方」は<strong>、空間的に離れた二つの価値体系</strong>になる。<br /><br /><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E59586E6A5ADE8B387E69CACE4B8BBE7BEA9.png" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E59586E6A5ADE8B387E69CACE4B8BBE7BEA9-thumbnail2.png" border="0" alt="商業資本主義.png" width="323" height="334" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E59586E6A5ADE8B387E69CACE4B8BBE7BEA9-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div><div><br /></div>◇18.19世紀における産業革命以降、貨幣経済は、<font color="#ff0000"><strong>【産業資本主義】</strong></font>の段階に突入する。<br /><div><br /></div><strong>工業制機械工業（マニュファクチュアリング）</strong>の発達に伴って、差異の「狭間」の位置は変化していく。この段階では、生産手段を独占的に所有している資本家（企業家）が、<strong>【労働者が持つ労働力の価値】と、彼らが創りだす【生産物の価値】との差異</strong>から利潤を創りだしていく。労働力の価値以上の価値を持つ生産物を生産することによって生まれる剰余的な価値が、資本家の元に手に入る。この構図を指して「搾取」と糾弾したのがかのカール・マルクスである。<br />&nbsp;</div><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E794A3E6A5ADE8B387E69CACE4B8BBE7BEA9.png" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E794A3E6A5ADE8B387E69CACE4B8BBE7BEA9-thumbnail2.png" border="0" alt="産業資本主義.png" width="307" height="285" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E794A3E6A5ADE8B387E69CACE4B8BBE7BEA9-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div><div><br />◇この【産業資本主義】は、さらに<strong><font color="#ff0000">【後期（ポスト）産業資本主義】</font></strong>へと進展する。<br /><div><br /></div>利潤を生み出す「差異」は、媒介されることによって消失していく。<br /><div><br /></div>交通手段が発展することで空間的な移動による価値ギャップが失われ、さらに資本全体の拡大することによって、「労働者階級」と「資本家」の境界線が消失していった。こうした外在的な要因が価値に差異を生まなくなったとき、資本主義は、〈利潤〉を生み出す差異の源泉を資本主義〈内部〉に求めるしかない。<br /><div><br /></div>そこで、その内部的差異の主要な源泉になってくるのが<font color="#ff0000">「技術革新」</font>である。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>「革新」と「欲望」の両輪</strong><br /><hr /><br />ある企業が他の企業に先駆けて新しい技術を開発／採用し、労働の生産性を高めたとする。それは無論生産コストを抑えて商品・サービスを作ることに直結し、他の企業よりも安く、早く、優れた商品を売ることができる。そこに生まれるのは、<strong>技術革新によって先取りされた「未来の価値」と、他企業が採用する「現在の価値」との差異</strong>である。<br /><div><br /></div>現代マーケティングで声高に叫ばれ続ける「イノベートせよ！」の号令は、この内部的にしか差異を創造することができなくなった後期資本主義のメインエンジン、「技術革新」のことを正しく指している<font size="1">&nbsp;</font>。<br />&nbsp;<br /><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E5BE8CE69C9FEFBC88E3839DE382B9E38388EFBC89E794A3E6A5ADE8B387E69CACE4B8BBE7BEA9.png" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E5BE8CE69C9FEFBC88E3839DE382B9E38388EFBC89E794A3E6A5ADE8B387E69CACE4B8BBE7BEA9-thumbnail2.png" border="0" alt="後期（ポスト）産業資本主義.png" width="303" height="262" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E5BE8CE69C9FEFBC88E3839DE382B9E38388EFBC89E794A3E6A5ADE8B387E69CACE4B8BBE7BEA9-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div><div><br /></div>また、価値は売り手だけが決めるのではない。消費者の側にとっても技術革新によって生まれる優れた商品・サービスを買い、より豊かな暮らしを目指して少しでも高い〈未来の価値〉を求めていく。ここに、追いつけ追い越せと「豊かな暮らし」を欲望し続ける<a href="http://blog.jma-net.jp/article/232216981.html">消費社会</a>への道筋が見えてくる。この消費者の<strong>【豊かさへの欲望】</strong>と<strong>企業の【技術革新】</strong>は車の両輪のようにして、〈価値と価値との間隙〉をこじ開けるダイナミクスを支えている。<br /><div><br /></div>そして〈利潤〉は生まれゆく。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>産業資本主義の無限運動</strong><br /><hr /><br />しかし、現在の企業人ならば誰しも身をもって体験しているとおり、イノベーションがその名で呼ばれる時間の幅は、ますます短くなっていく。ここでもやはり「差異」は媒介によって消失していく運命にある。<br /><div><br /></div>技術革新は「価値体系の隙間」を生み出し〈利潤〉を創出する原理的な運動だが、技術革新によって〈未来の価値〉をまとって世に出た商品は、<strong>競合者からの模倣</strong>を免れ得ない。瞬く間に技術はマネされ、盗まれ、〈未来の価値〉は〈現在の価値〉と等しくなり、差異そして利潤は消えていってしまう。差異は常に相対的で、動態的だ。<br /><div><br /></div>このように、<strong><u>産業資本主義とは、技術革新とそれを求める消費者の欲望によって、半永久的に内部に差異を作り続ける、動的なメカニズムを持った社会なのである。<br /></u></strong><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div>ここまでくれば、新しい情報技術がなぜ常に持て囃され、「社会を変える」と言われ続けてきたかわかるだろう。<br /><div><br /></div>「暮らしの変化」を「社会の変化」と等値すれば、それは確かに変化している。情報技術は、われわれの生活を大きく変えた。しかし、<strong>「暮らしの変化」は産業資本主義社会が〈利潤〉を生み出し、産業資本主義社会で<u>あり続けるための</u>必須条件である。</strong><br /><div><br /></div>暮らしの変化の表面的なわかりやすさは、Ⅰで指摘したような社会への技術アナロジーを招き寄せるが、それを〈社会の変化〉と置き換えてしまうのは、社会を理解したいという願望に歪められた錯誤である。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>結論――「メディアが社会を変える」の錯誤</strong><br /><hr /><br />まとめよう。Ⅱの論点からは、「メディアが社会を変える」の言説は、以下の点で誤っていることが指摘できそうだ。<br /><div><br /></div>まずは、その言説の論理に内在的な誤りが二つある。<br /><div><br /></div>1. 産業資本主義社会で〈利潤〉を発生させるのは、【豊かさへの欲望×技術革新】の両輪であった。「メディア・が・社会・を・変える」という論理は、その両輪の片側、「技術革新」の方だけ注目してしまった結果、【メディア】→【社会】の一方通行の回路を捏造してしまう。<br /><div><br /></div>2 .そして、産業資本主義のもう一つの重要な性質として、その両輪は「回り続ける」。<br />「特定の技術が、社会をある姿から別の姿へと変える」という発想では、その運動の反復性・無限性を把握できない。〈利潤〉を生み出すべく差異を創り続ける産業資本主義の動的な作動を、ある〈技術〉が登場した時点でバッサリと切り取ってしまう近視眼的な錯誤に陥っている。<br /><div><br /></div>そして、より大きく根本的な誤りは、<br /><div><br /></div><strong>「技術が社会を変える」という声を上げている間、人はそれが産業資本主義の成立以来ずっとわれわれが住んでいる社会から発される声であること、そのことに気がつくことができない。</strong></div><div><strong><br /></strong></div><div>「イノベートせよ！」は、ここ数百年われわれが生きている産業資本主義社会が、〈利潤〉を求めてずっと繰り返してきた命題であり、社会の基本構造はここにおいて少しもブレることなく不変である。<br /><div><br /></div><div><br /></div>確かに、メディア決定論的な議論には可視的な「技術」を前提にできる分かりやすさがある。「技術による社会変革」には、驚くような未来社会のあり方を夢想する高揚感がある。<br />新しいメディアが登場するたびに、健忘症的にこの同じサイクルは繰り返されてきた。そんな技術の夢物語にはみなどこか飽き飽きしているはずなのに、利潤を生み出す技術革新の運動には「今度こそは」と思わせる麻薬的な魅力がある。<br /><div><br /></div>現在の最新の〈技術革新〉であるソーシャルメディアの周りにも、その麻薬の熱に浮かされた言葉はまとわりついている。その誘惑に吸い込まれないためにも、忘れないようにしたいのは次のことだ。<br /><div><br /></div>技術を発明するのも、使うのも、広めるのも社会の側であれば、「技術と社会」について語るのもまた社会でしかない。これが今回のエントリにおける「社会学のすゝめ」となれば幸いに思う。<br /><div><br /></div><hr /><br /><font size="1">【脚注】</font><br /><font size="1" color="#808080">ⅰ）現在世界で最もinnovativeな企業の一つと目される米Appleが、2012年第1四半期に463億ドルを売上げ、130億ドルの純利益を発表したことは記憶に新しい。</font><br /><div><font size="1"><br /></font></div><font size="1">【参照文献】</font><br /><font size="1">岩井克人，1985=1992，『ヴェニスの商人の資本論』ちくま学芸文庫．</font><br /><font size="1">佐藤俊樹，1995，『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化社会を解体する』（講談社選書メチエ）</font><br /><div><font size="1"><br /></font></div><div><font size="1"><br /></font></div><div><br /></div></div>
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<item rdf:about="http://blog.jma-net.jp/article/251246451.html">
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<title>第17回「人気施設への転換」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシーGI部　ディレクター　インタビュアー　吉田　聖美年明け長崎ハウステンボスに泊まりで行ってきた。高校生まで九州で過ごしていたこともあり、行くのは初めてではないが、ここ10年ほどは行く機会がなかったため、久々に門をくぐることとなった。長崎ハウステンボスは、長崎県佐世保市にあるオランダの街並みを再現したテーマパークである。私が遠ざかっていた10年の間に取り巻く状況は激変している。2010年からはＨＩＳ傘下に入り、黒字化も達成している。..</description>
<dc:subject>リサーチャーのつぶやき</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-02-08T20:50:57+09:00</dc:date>
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<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">GI部　ディレクター　インタビュアー　吉田　聖美</div><div><br /></div>年明け<strong>長崎ハウステンボス</strong>に泊まりで行ってきた。高校生まで九州で過ごしていたこともあり、行くのは初めてではないが、ここ10年ほどは行く機会がなかったため、久々に門をくぐることとなった。<br /><div><br /></div>長崎ハウステンボスは、長崎県佐世保市にあるオランダの街並みを再現したテーマパークである。私が遠ざかっていた10年の間に取り巻く状況は激変している。2010年からはＨＩＳ傘下に入り、黒字化も達成している。<br /><div><br /></div>なぜ黒字化が達成されたのだろう。現地に行くと、色々な要因が見えてきた。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>要因(1)</strong><strong>：コンセプトを明確にし、その上で必要な設備を見極める</strong><div><hr /><br />「滞在型・過ごす都市」がハウステンボスのコンセプトであり、他のテーマパークとの違いである。住所も「ハウステンボス町」であり、街中には大学、公園、消防署、警察署もある。テーマパークらしからぬ、街の雑貨屋の様相のお店もあり、一部の無料エリアでは市バスも通っている。<br /><div><br /></div>「滞在」をテーマにすると、そこに必要なのは、大掛かりなアトラクションではなく、季節を感じ、眺めていたくなる風景になる。<br /><div><br /></div>実際、ハウステンボスにおいて、大掛かりなアトラクションはあまりなく、10年前と比べてもアトラクションが格段に増えた印象はなかった。アトラクションに頼らず、来場者を増やすことが可能という証拠でもある。<br /><div><br /></div>また、場内にある飲食店も単価が低めのものも用意されていたり、宿泊先も高級ホテルだけではなく、コンドミニアム・ペンションタイプも存在しているなど、居心地の良さが重視されている。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>要因(2)：「Ｎｏ．１」を作る</strong><br /><hr /><br />今回訪れて一番驚いたことは、夜のイルミネーションの豪華さであった。820万個のＬＥＤを使ったイルミネーションは世界一の規模らしい。<br /><div><br /></div>夜のイルミネーションが世界一→来たからにはイルミネーションを見よう→滞在型都市なので、宿泊場所はバリエーションに富んでいる→なら、泊まっていこう、という好循環を呼んでおり、実際、平日であったにも関わらず、宿泊施設のほとんどは満室であった。<br /><div><br /></div>１位は覚えられても、２位は記憶に残らないとは良く言われる話である。知らない人に良さを伝えるときにも「世界１の○○があるんだって」というのはわかりやすいメッセージになる。<br /><div><br /></div>これだけは負けないと言えるものを持ち、しかもその１位がコンセプトに沿っている点が好ましい。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>要因(3)：出来ることと出来ないことを知る</strong><br /><hr /><br />(1)(2)の流れは、来場者の滞在時間を延ばすことになり、客単価の増加にもなる。滞在時間が長く、丸１日を満喫した気分になれると、○円で丸１日楽しめるなんてお得という気分になり、１日パスポートの料金設定を相対的に安く感じ、コストパフォーマンスの良さが印象に残る。<br /><div><br /></div>今後、休みができ、１日どこかに出かけよう、となったときに候補となる可能性がアップする。<br /><div><br /></div>東京などと比べて商圏が狭く、利用可能者数も少ない地方のテーマパークにおいて、客単価を増やすことは課題として大きい。ちなみに、ハウステンボスの2009年の来場者数は約141万人。長崎県の人口が約140万人であることを考えても、来場者数を増やすことには限界があるであろう。<br /><div><br /></div>来場者数を増やすことにこだわるよりも、客単価を上げる方が身の丈にあった施策ということになる。<br /><div><br /></div><div><br /></div><hr /><br />今回のケーススタディで見られた<br />　　「コンセプトを明確にし、その価値を提案するプロダクトを作っていく」<br />　　「消費者にアピールできるわかりやすい売りを作る」<br />　　「出来ることと出来ないことを把握した上で方向性を定める」<br />ということは、マーケティングでは基本ではあるが、商品の開発が進んだり、商品が世に出てからしばらく経つと、何となく他の情報に押されて忘れがちなことでもある。<br /><div><br /></div>ハウステンボスがかつて大掛かりな施設を作ろうとしたり、迷走してしまったのも、ディズニーリゾートのような他の人気テーマパークに目が行って、模倣しようとしてしまったからではないだろうか。<br /><div><br /></div>迷ったときには初心に返ること、ないものねだりをせず、自分に出来ることを考えることの重要性を感じた旅となった。<br />&nbsp;<br />&nbsp;<br /></div>
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<title>第17回「鬼は外！」と「福は内！」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシーGI部　ディレクター インタビュアー 梅津 順江（ウメヅ ユキエ） ２月３日は、節分。節分の豆まきでは、「鬼は外、福は内」という。脳科学者の&amp;quot;茂木 健一郎氏&amp;quot;は、ある著書の中で、東大名誉教授&amp;quot;清水 博氏&amp;quot;の節分の話を紹介している。生命現象の研究の第一人者として知られ、「ホロン＊」や「場」などの概念を提唱して多くの影響を与えた清水博東京大学名誉教授の講演を聴き、感銘を受けたことがある。お話の..</description>
<dc:subject>マーケティング・対比思考</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-02-08T20:32:06+09:00</dc:date>
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<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">GI部　ディレクター インタビュアー 梅津 順江（ウメヅ ユキエ）</div><div style="text-align: right"><br /></div>&nbsp;２月３日は、節分。<br />節分の豆まきでは、「鬼は外、福は内」という。<br /><div><br /></div>脳科学者の&quot;茂木 健一郎氏&quot;は、ある著書の中で、東大名誉教授&quot;清水 博氏&quot;の節分の話を紹介している。<br /><table border="1" cellpadding="20" width="704" height="108" bordercolor="Black"><tbody><tr><td><div><br /></div><div>生命現象の研究の第一人者として知られ、「ホロン<font size="1">＊</font>」や「場」などの概念を提唱して多くの影響を与えた清水博東京大学名誉教授の講演を聴き、感銘を受けたことがある。<br /><div><br /></div>お話の中で、清水さんはしきりに「鬼」の話をされた。<br />節分になると、「鬼は外」と豆をまく。子どもたちが鬼のお面をかぶった大人に豆を投げる光景は微笑ましいが、あの行事には日本人の素晴らしい叡智が込められていると清水さんは言われた。<br /><div><br /></div>鬼は異質な他者の象徴である。困ったこと、悪いことをする鬼は豆をまいて追い払わなければならない。しかし、防御を完全にして、最初から鬼が入ってこないようにするのではなくて、むしろ鬼が入って来られるような隙間を空けておく。そのような余裕を見せた上で、鬼が入ってきたら豆をまく。<br />そのような他者との生き生きとしたやりとりが、生命を育む「場」としての大切なデザイン原理である。<br /><div><br /></div>そのような趣旨のことを、清水さんは言われた。私は、なるほどと大いに共感したのである。<br /></div><div><br /></div></td></tr></tbody></table><br /><br />邪気な存在と見なされた「鬼」に対して豆を投げる節分行事には、日本人の素晴らしい生きる知恵が隠されている。<br /><div><br /></div>自分のテリトリーに鬼を最初から入れないのではなく、<strong>「一度、軒下あたりまで入れた上で」</strong>それから追い払う節分の呼吸は、鬼が家の軒下まで入ってくることを許容して、コミュニケーションをしているといえる、ということであろう。<br /><div><br /></div><div><br /></div>最近、ＭＲＯＣ（Market Research Online Communities）業務を遂行している中で、情報漏洩や著作権侵害などにまつわるルール作りの話になった。<br /><div><br /></div>「対象者間が密なコミュニケーションを長期にわたって行うため、通常のグループインタビューやＣＬＴ（Central Location Test）よりもセキュリティ面のリスク回避を厳密に決めておかなければならない」という考えである。<br /><div><br /></div>一年近く ＭＲＯＣに携わってきたが、幸いなことに、参加者がブログなどにＭＲＯＣ上で知りえた情報を書き込んだり、参加者同士でトラブルが生じたり、というケースは一切生じなかったので、そこまで神経質に考えたことはなかった。<br /><div><br /></div>もちろん、最悪の事態を想定した規約や安全を考え抜いたルール決めは必要なことだと思うが、「鬼は外、福は内」という節分の精神に、一つの「場」のあり方のヒントがあるのではないか。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div style="text-align: center"><strong>「鬼が入って来れるようにしておいて、豆をまくのが大切なんだよ」</strong></div><div><br /></div>鬼が軒下まで来ることの意味を考え直してみると、開いているからこそ、通りの景色も見えるし、風も入ってくる。鬼も入って来れないような家では、そもそも人間は自由に住むことができない。<br />この世に生きている以上、「外」との折衝は避けられない。鬼が一切侵入しないように、<strong>セキュリティをがちがちに固めてしまったら、自分たちの生命をも枯渇してしまう</strong>。<br /><div><br /></div><div><br /></div>ＭＲＯＣのコミュニティ上においても、同じことがいえる。安全や防衛を完全に追求しようとすると、参加者は窮屈になり、場の雰囲気がガラスのように固くなってしまうと思う。<br /><div><br /></div>コミュニティの運営にあたって、参加者同士がどのようなタスクや問いかけをしたら楽しく議論できるか、そのための場の提供はどうすればよいか、ということの延長線上にリスク回避も存在するのではないか。<br /><div><br /></div>リスクヘッジの側面からみても、「コミュニティマネージャーは、常に場の活性化をはかることを考える必要がある」「懐（軒下）に入ってくる参加者の意見に耳を傾けることは大事である」ということを、痛感した。<br /><div><br /></div><div><br /></div><font size="1">＊ホロン（Holon）とは、物の構造を表す概念。</font><br /><div><br /></div>　
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<title>第5回「ソーシャルメディアは〈社会〉を変えるのか&lt;br /&gt;―情報社会論の知識社会学（前編）」</title>
<description>株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシーフィールドワーク部　　小林祐児（コバヤシ　ユウジ）　Mixi, Facebook, Twitter, Google+, LinkedIn…　「ソーシャルメディア元年」と呼ばれた2010年頃から、続々とお茶の間に浸透していったソーシャルネットワークサイト。そして2ちゃんねるからWikipedia、@cosmeまで、一般の参加者がコンテンツを編集することによって成立するCGM【Consumer Generated Media】の勢い..</description>
<dc:subject>社会学のすゝめ</dc:subject>
<dc:creator>投稿者</dc:creator>
<dc:date>2012-01-05T16:43:31+09:00</dc:date>
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<div style="text-align: right">株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー</div><div style="text-align: right">フィールドワーク部　　小林祐児（コバヤシ　ユウジ）</div><div><br /></div>　Mixi, Facebook, Twitter, Google+, LinkedIn…　「ソーシャルメディア元年」と呼ばれた2010年頃から、続々とお茶の間に浸透していったソーシャルネットワークサイト。そして2ちゃんねるからWikipedia、@cosmeまで、一般の参加者がコンテンツを編集することによって成立する<strong>CGM</strong>【Consumer Generated Media】の勢いは、誰しもが認めるところとなった。<br /><div><br /></div>とりわけ2011年は、2月のエジプト民主革命におけるFacebookを使った動員や、東日本大震災後の情報経路としてSNSの活用が話題になったこともあり、ソーシャルメディアはマーケティング業界を含む様々な場所で旋風を巻き起こし続けている。<br /><div><br /></div>様々な人が様々な側面からその影響力を語る中で、ソーシャルメディアは「社会を変える」「企業を変える」「組織を変革する」ものとして、多くの人々の語気を荒くさせ、ネットや活字の中を扇情的に踊ることになった。<br /><div><br /></div>ソーシャルメディアが生む「フラットな社会」や「フレキシブルな組織」は、さも人類史上の大転換かのように喧伝され、かつて無い組織像、社会像がいたるところで夢想されている。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><strong><br /></strong></div><strong>メディアは社会の夢を見る</strong><br /><hr /><div><br /></div>しかし、過去の歴史は、こうした熱い議論にいとも簡単に冷や水を浴びせてくる。<br /><div><br /></div>実はこうした議論は、情報技術が急速に発展した60年代以降ずっと、つまり約50年間ずっと繰り返し現れてきた。<strong>半世紀もの間、「メディア／技術が社会を変える」型の言説は先進工業国を中心に世界中でなんども繰り返されてきたのだ。</strong><br /><div><br /></div>ラジオ、テレビなどのマスメディア、そして「ニューメディア」と呼ばれたビデオテックスやマイコン、そして携帯電話やパーソナルコンピュータ、World Wide Webなど、新たな情報技術、情報システムの誕生はことごとく「社会を変える！」と言われてきた。<br /><div><br /></div>かといって、繰り返される情報社会論に対してそうした歴史を示し、議論の梯子を外すことが本エントリの目的ではない。その梯子外しは結局、メディアと社会の関係について「変わったこともあれば変わってないこともあるよね」といった程度問題で議論を終わらすか、「テクノロジーの流行に踊らされないように」といった半端な結論を導きがちだ。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>メディアと社会の知識社会学</strong><br /><hr /><div><br /></div>このエントリの焦点はそこではなく、<strong><u>「〈メディアが社会を変える〉とずっと言われ続けるのはなぜなのか」</u></strong>という点にある。「社会を変える」の謳い文句がなぜ繰り返し現れるのかを、そもそもの「社会の問題」として照らし返すことが目的となる 。<br />ちなみに、このように事象そのものではなく、事象に対する人々の知識や認識、言説を考察の対象とする分野を社会学では<font color="#ff0000"><strong>「知識社会学」</strong></font>と呼ぶ。<br /><div><br /></div>ここで、先の見通しを良くするために、結論的なことを前もって述べておくことにしよう。<br /><div><br /></div><table border="1" cellpadding="20" width="704" height="108" bordercolor="Black"><tbody><tr><td><br />Ⅰ．情報社会論のこの「お家芸」の骨子にあるのは<strong>社会を情報技術のアナロジーで語る</strong>ことによって<strong>「社会の不透明さ」</strong>を<strong>「技術の明確さ」</strong>で埋め合わせる、という構造であり、<br /><div><br /></div>Ⅱ．それは繰り返し現れてくるのは、<strong>「技術発展による進歩」</strong>という<strong>近代産業社会そのものが持つ性質</strong>によるものである。<br /><br /></td></tr></tbody></table><br />まずこの前編では、Ⅰ. の論点から論ずることにする。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><strong>技術と社会のアナロジー</strong><br /><hr /><br />さてまずは、情報社会論としてどういったことが言われているか確認しよう。新しい技術と社会についての語りでは、例えば次のような言い回しがされてきた（されている）。<br /><div><br /></div>　・「コミュニケーションが分散的になり、ネットワーク社会が訪れる」<br />　・「階層的な社会／組織から、柔軟でフラットな構造を持った社会／組織へと変化する」<br />　・「時間と空間が縮減され、世界全体がコミュニケーションによって一つになる」<br /><div><br /></div>読者の方も近年のソーシャルメディアを語る議論の中でこうしたフレーズに覚えがあるだろうと思う。<br /><div><br /></div>しかし、これらの言葉は60年代から50年間、情報化社会を語る言葉の中でほとんど変わらず繰り返されてきたものである。60年代にはメディア論の始祖マーシャル・マクルーハンが<strong>「地球村Global Village」</strong>という言葉で一つになった世界イメージを提出していたし（Mcluhan 1964=1987）、電話やラジオが発明されたときにはすでにそれらが「ネットワーク社会」をつくると考えられていた。<br /><div><br /></div>問題は、なぜこのように同じような内容が新たな情報技術が現れるたびに繰り返されるのか、である。<br /><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><strong>技術と社会のアナロジー――大型計算機からネットワークへ</strong><br /><div><hr /><br /></div><strong>その理由は、情報社会論が【社会のモデル】を【テクノロジーのアナロジー】で示した上で、【テクノロジーの変化】を【社会の変化】として語ってきたことにある。（Ⅰ. ）</strong><br /><div><br /></div>例えば、情報社会論において、情報化した社会はしばしば<font color="#ff0000"><strong>大型計算機や「システム」のモデル</strong></font>で例えられてきた。<br /><div><br /></div>あらゆるモノゴトが情報化（デジタル化、ビット化）し、その情報を中心に配置された大型計算機が集中的に管理しデータベース化する社会。<br /><div><br /></div>そして、大型計算機の性能が向上し、完璧な処理機能と正確さを実現すれば、大型計算機に例えられてきた社会の方もより完全に制御されたシステム社会として「変化」することになる。70年代までの情報社会論はこうしたシステム制御された電脳社会を基本的な未来社会のイメージとして提起するものが多かった。<br /><div><br /></div><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E68385E5A0B1E68A80E8A193E383A2E38387E383AB.png" target="_blank"></a><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E68385E5A0B1E68A80E8A193E383A2E38387E383AB.png" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E68385E5A0B1E68A80E8A193E383A2E38387E383AB-thumbnail2.png" border="0" alt="情報技術モデル.png" width="534" height="217" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E68385E5A0B1E68A80E8A193E383A2E38387E383AB-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /><br /></a></div><div><br /></div>だが、そうした完璧にシステム制御された電脳社会が実現へと至る前に、情報社会論はその夢にさっさと見切りをつけ、次のフェーズへと移ってしまう。<br /><div><br /></div>80年代以降、小型ワークステーションやパソコン、携帯電話に代表される小規模で個人向けのメディア情報テクノロジーの登場により、情報社会を語る流行のキーワードは大型計算機から<font color="#ff0000"><strong>「ネットワーク」</strong></font>へと変化した。その流れは個人と個人の分散的なコミュニケーションを可能にするインターネットの登場でさらに拍車がかかり、現在世間をにぎわすソーシャルメディアもその線の延長上に位置している。<br /><div><br /></div><div style="text-align: center"><a href="http://jma.up.seesaa.net/image/E68385E5A0B1E68A80E8A193E383A2E38387E383AB2.png" target="_blank"><img src="http://jma.up.seesaa.net/image/E68385E5A0B1E68A80E8A193E383A2E38387E383AB2-thumbnail2.png" border="0" alt="情報技術モデル2.png" width="525" height="238" onclick="location.href = 'http://blog.jma-net.jp/upload/detail/image/E68385E5A0B1E68A80E8A193E383A2E38387E383AB2-thumbnail2.png.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><div><br /></div><div><br /></div>だが、そこで語られる内容の形式は、階層化したシステム社会の語られ方を繰り返す。<br />従来の社会を大型計算機のような階層的で集権的な情報技術で例えておいて、情報技術の方が変化すれば（ネットワーク化すれば）それに合わせて社会の変化した（ネットワーク化）が起こるかのように喧伝する。<br /><div><br /></div>こうして「新しいメディアによって社会のネットワーク化が進む」といった文言は、「新メディア」の部分を「携帯電話」「パーソナルコンピュータ」「Web 2.0」「ソーシャルメディア」などの様々な情報技術に置き換えながら、繰り返された。<br /><div><br /></div><div><br /></div><strong>技術アナロジーの困難</strong><br /><hr /><br /><font color="#ff0000"><u>しかし、集中型の大型計算機にしても分散的なネットワークにしても、情報技術のモデルの明解さ、理解しやすさと比べたとき、現実の社会ははるかに複雑である。</u></font><br /><div><br /></div>大型計算機のように末端と中央に二分される集権的な階層社会が存在したことがないし、コンピューター・ネットワークのようにバラバラに分散した社会構造が実現したことも歴史上一度もない。大型計算機もネットワークも「社会」を表すアナロジーとしてはあまりに大雑把であり、イメージとしても曖昧に過ぎるものだ。<br /><div><br /></div>だがメディア社会論・情報社会論は、<div><strong>(1)そうした無理のある技術のアナロジーを現実社会に当てはめつつ、</strong><br /><strong>(2)技術が変化するにつれ社会も変化する、という論理を繰り返す。</strong><br /><div><br /></div><div>「階層的社会」も「ネットワーク社会」も、現実の社会からかけ離れたアナロジーでしかないため、実社会との検証作業を省略しながら、技術予測に基づいた遠くない未来の夢だけが語られる。<br /><div><br /></div>むしろ、曖昧で実態が定かでないからこそ、技術のアナロジーは「将来はこうなって欲しい」という願望に引きずられたまま、社会の姿へと強引にあてはめられやすい。<br /><div><br /></div><div><br /></div>たしかに、複雑で不透明な社会の構造に比べれば、情報技術は見えやすく、イメージしやすい。将来の動向も社会に比べれば予想がつきやすく、実際に技術を用いている具体的な場面もすぐに想像できる。<br /><div><br /></div>今や誰しもがEメールやSNSや携帯電話を使い、ラジオやテレビの視聴を体験している（すこし前の世代なら、パソコン通信やポケベルを〈新技術〉として経験してきた）。<strong><u>情報技術を社会のアナロジーとして使うことは、社会を具体的に分析する代わりに、そうした「テクノロジーの明解さ」を持ちだし、「社会を理解した気になりたい」という欲望の現れでもある。</u></strong><br /><div><br /></div>論理を逆さにしてみれば、現代社会というのは、「社会をもっと明確さに捉えたい」という欲望を不断に喚起しつづけるような、漠然とした不安感を抱かせる不透明な社会とも言えるかもしれない―――。<br /><div><br /></div><div><br /></div>今回、ここまでのエントリでまずⅠ.の論点、つまり情報社会論の論理的な骨子（とその怪しさ）について述べてきた。<br />続くⅡ．の論点は、「技術・メディアが社会を変える」という繰り返しの言葉が我々に新しさと魅力を感じさせ、また繰り返されることになるメカニズムについてである。その所以を次回のエントリ〈後編〉で考えてみたい。<br /><div><br /></div><br /><hr /><br /><font size="1" color="#999999">ⅰ） 今回のエントリ執筆にあたって大きな参照点としたのは佐藤俊樹著『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化社会を解体する』（講談社選書メチエ）である。メタ情報社会論の代表的名著であり、1996年の刊行にも関わらず2010年に補論を付されて『社会は情報化の夢を見る』として河出文庫から文庫化された</font><br /><div><br /></div><font size="2">【参照文献】</font><br /><font size="2">McLuhan, Marshall , 1964, Understanding Media: the Extensions of Man, （＝1987，栗原裕・河本仲聖訳『メディア論――人間の拡張の諸相』みすず書房．）</font><br /><span style="font-size: small">佐藤俊樹，1995，『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化社会を解体する』（講談社選書メチエ）</span><br />　<br />　<br /><div><br /></div></div></div>
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